我が家の近所でも、弁天町の大阪ベイタワーにあった、文教堂系列のキャップ書店が3月に撤退した。港区内には小さな書店が数店と、ライフ弁天町店の2階の書籍コーナーが辛うじて残るのみ。この先、こうして街中からどんどん本屋さんが消えていくのだろう。本好きにとっては、心底淋しい話である。
そもそも、私にとって最も幸せな休日の過ごし方は、書店で「たゆたう時を愉しむ」ことである。「たゆたう」という言葉の使い方が合っているのかどうか分からないけれども、目的を決めず、時間にも縛られず、本とともにゆったりと過ごしたいのだ。手にする本のジャンルは問わない。文藝書でも、ビジネス書でも、専門書でも、地図でも、雑誌でも、できるだけ隈なく店内を巡りたい。書店に入るとなぜか便意を催すのは私とて同様であるから、トイレで用を足すことさえも織り込んで、書店での時間と空間を共有したい。
立ち読みの客を叩(はた)きで追い払う店主の存在なんて今は昔の話。ジュンク堂などは「立って読むのもしんどいでしょうから、どうぞこちらにお座りになってごゆるりと」とばかりに机や椅子を用意し、『座り読み』を推奨しているほどである。読むだけ読んで買わないのは申し訳ないと思うけれど、少なくとも私の場合、立ち読みとは即ち品定めであって、これにじっくり時間をかけ、これぞと思う本は購入している。逆に言えば、買いたい商品が決まっていて利用するネット通販と違って、「これぞと思う本」との出会いを求めて書店へ足を運ぶのだ。あれこれと本を手に取って、時には思いがけない本との出会いで衝動買いしてしまうこともあるけれども、そんなこんなも含めた一連の流れこそが至上の愉しみなのであって、ネット通販で本を買おうとあまり思わないのはそれが理由である。
ところで、書籍を実際に手にして、というのなら、図書館でもよいではないかという意見もあるだろう。けれども私は、図書館にはあまり足が向かない。公共施設としては随一の静謐な空間であるから、集中して読書を愉しめそうな気がするのだが、あそこでじっくり本を読もうという気にどうもなれないのだ。自分ひとりの空間で「たゆたう時を愉しむ」という感じがしないし、施設の公共性が、それを阻害しているような気がする。現に、図書館の利用目的は「本を読むこと」には限らないだろう。調べものをしている人もいる。それと見せかけて自習をしている学生もいる。椅子に座って居眠りをしているだけの老人もいる。本など歯牙にもかけない子どもたちもいる。その点、書店だって物理的な意味での個別空間では当然ないけれども、本を読む、本を手にする以外の目的で書架の前に立つ客はあまりいないだろう。手にする本はその人固有の目的で選ばれているものだから、そこはもう、自分ひとりの空間であり、「たゆたう時を愉しむ」時間となるのだ。
であれば、借りて帰ればよいではないかという意見もまたあるかもしれない。私の手元には、大阪府立図書館と、大阪市立図書館の双方の利用者カードがあって、実際、時々利用もするのだが、家に持ち帰ったところでやっぱり集中して読めない。なぜなら、返却期限の存在が「早よ読め!」「まだ読み残してる本があんぞ!」という強迫観念となるからだ。人様のものを借りているのだから、期限までにお返しするのは当たり前だが、読書というのは、好きなときに、好きなスピードで行いたいから、いつまでに読了しなければならないというプレッシャーは、大いに読書への集中を妨げるのだ。その点、自身が購入した本であれば、読了の期限もないから、気儘に「たゆたう時を愉しむ」ことができる。そんな次第だから、積読本は増える一方であるし、うっかり同じ本を重複して購入してしまうこともしばしばであるが、それに囲まれるのもささやかな喜び、そこから本を発掘するのもまたささやかな喜びというものである。
街中からは書店がどんどんその姿を消している。Wikipediaによれば、2000年から2010年の10年間で約3割、数にして約6,000店が減少したという。今なら減少のスピードはもっと加速しているのではないだろうか。インターネットの普及で情報源が多元化したこと、電子書籍の登場で書店の来店者が減ったこと、都心の大型書店への寡占化が進んでいることなどなど、書店業界を取り巻く環境の激変は多分にあるだろう。所属する事業部は違えど、勤務先も書店業を営んでいるから、そうした厳しい状況の下、「リアル店舗の存在価値」を懸命に見出し、訴求しているのを知っている。
TSUTAYAが公立図書館の運営を受託したり、Amazonが米国でリアル書店を出店したりと、本屋さんの在り方もまた大きく変容してきていて、どれがどういう方向に向かうのか、素人には分からないけれども、一人の本好きとして、リアルの本屋さんはこれからも大切な存在であり続けるし、その存在価値を、小さな声ながら声高に叫びたい。
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