芥川龍之介作品の冒頭末尾を掲載します。時には小説気分!
◆『或阿呆の一生』
●冒頭
それは或本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、
新しい本を探していた。モオパッサン、ボオドレエル、ストリンドベリイ、イ
ブセン、ショウ、トルストイ、……
●末尾
……彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしていた。言わば刃のこぼれて
しまった、細い剣を杖にしながら。 (芥川龍之介『或阿呆の一生』)
◆『或日の大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)』
●冒頭
立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨(さが)たる老木の梅の
影が、何間(なんげん)かの明(あかる)みを、右の端から左の端まで画の如く
鮮(あざやか)に領している。
●末尾
こうして、古今に倫を絶した俳諧の大宗匠、芭蕉庵松尾桃青(ばしょうあん
まつおとうせい)は、〈悲歎かぎりなき〉門弟たちに囲まれた儘、溘然(こうぜん)
として属糸廣(しょっこう)に就いたのである。
(芥川龍之介『或日の大石内蔵助』)
◆『芋粥』
●冒頭
元慶の(がんぎょう)末か、仁和(にんな)の始にあった話であろう。どちらに
しても時代はさして、この話に大事な役を、勤めていない。
●末尾
五位は慌てて、鼻をおさえると同時に銀(しろがね)の堤(ひさげ)に向って大
きな嚔(くさめ)をした。
(芥川龍之介『芋粥』)
◆『河童』(1927)
●冒頭
これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしゃべる話である。
●末尾
僕はS博士さえ承知してくれれば、見舞に行ってやりたいのですがね……。
(芥川龍之介『河童』)
◆『杜子春』
●冒頭
或朝の日暮です。 唐の都洛陽(らくよう)の西の門の下(した)にぼんやり空
を仰いでいる、一人の若者がありました。
●末尾
「おお、幸(さいわい)、今思い出したが、おれは泰山(たいざん)の南の麓に一
軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好
い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」とさも愉快
そうにつけ加えました。
(芥川龍之介『杜子春』)
◆『鼻』
●冒頭
禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。
●末尾
――こうなれば、もう誰も哂(わら)うものはないにちがいない。内供は心の
中でこう自分に囁(ささや)いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
(芥川龍之介『鼻』)
◆『藪の中』
●冒頭
さようでございます。あの死骸を見つけたのは、わたしに違いありません。
●末尾
おれはそれぎり永久に、中有(ちゅうう)の闇へ沈んでしまった。……
(芥川龍之介『藪の中』)
◆『羅生門』
●冒頭
或日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門の下で雨(あま)
やみを待ってゐた。
廣い門の下には、この男の外に誰もゐない。唯、所所丹塗の剥げた、大き
な大きな圓柱に、蟋蟀が一匹とまってゐる。羅生門が朱雀大路にある以上は、
この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありさう
なものである。それが、この男の外には誰もゐない。
何故かと云ふと、この二三年、京都には地震とか辻風とか火事とか饑饉と
か云ふ災がつづいて起つたそこで洛中のさびれ方は一通りではない。舊記に
よると、佛像や佛具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりし
た木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に賣つてゐたという事である。洛中が
その始末であるから、羅生門の修理などは元より誰も捨てて顧みる者がなか
った。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。
とうとうしまひには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて
いくと云ふ習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも氣味
を惡がつて、この門の近所へは足ぶみをしないことになってしまったのであ
る。
その代り又鴉が何處からか、たくさん集まってきた。晝間見ると、その鴉
が何羽ともなく輪を描いて、高い鴟尾のまはりを啼きながら、飛びまはって
ゐる。殊に門……」
●末尾
下人の行方は誰も知らない。 (芥川龍之介『羅生門』)