映画「大脱走」の元になった実話
~希望と誇りを捨てなかった男たちの物語~
1943年春、ベルリン近郊にあるドイツ第三捕虜収容所にイギリス空軍のひとりの将校が収容されてきました。彼の名はロジャー・ブッシェル少佐といい、軍隊に入隊するまでは、輝かしい経歴を持つ弁護士として知られていた人物でした。そのうえ少佐は、9か国語も流暢に操れる大変な才能の持ち主でもありました。
収容所に来るなり少佐は驚きました。規律も何もなく、まるで士気というものが感じられなかったからです。ばらばらで統一感がなく、全員あきらめきった表情で毎日をなんとなく惰性で生きているようでした。これではだめだと思った少佐は、全員を集めるとこう演説しました。
「諸君は不幸にも捕らえられ、捕虜としてここに連れてこられた。しかし捕らわれても我々は使命を忘れるべきではない。今の時間は神がある目的のために、我々に与えたものだ。つまり、脱走して後方でドイツを混乱におとしめるためだ。ここで出来ることは限られているが、敵に一泡ふかせてやることぐらいはできるはずだ。ちがうかね? 諸君!」
少佐はまず、ものごとが機能的に動くように考え、脱走委員会なるものを組織しました。次に、綿密に脱走のプランを練り上げていきました。少佐のプランによると、今回の脱走計画は数名程度のちゃちなものではないのでした。なんと200名以上もの人間が一挙にこの収容所から姿を消してしまうという規模で行われるのです。これほどの大がかりなスケールで行われた脱走はこれまでにありません。いわば前代未聞の大脱走なのです。その信じられない大脱走を実現させてみようというのが少佐の考えだったのです。
プランの結果、トンネルは3か所から同時に掘ることがいいだろうと考えられました。一つに絞ってそれに全力集中した方が効率がいいという意見もありましたが、それだと見つかったときの落ち込みが激しく絶望的になります。それよりも、トンネルの一つが見つかっても、まだ別のがあるさと期待の持てる方が気分的にゆとりが持てるというものです。なにか重大な目標を成し遂げるためには、ガチガチではダメなのです。心のゆとりがなければ成功はおぼつきません。それに、トンネルが3本も同時に掘り進められているとは、よもやドイツ軍の方でも想像することすら出来なかったでしょう。
しかし、この第三捕虜収容所というところはドイツ軍が建設した捕虜収容所の中でもとりわけ脱走が困難なようにさまざまな工夫が凝らされていることでも知られていました。 特にトンネルを掘り進めるにあたってはいろいろな障害がありました。 まず、収容所のバラックは、発見しやすいように地面からすこし浮かせて建てられていたのです。これは歩哨がひょいと床下をのぞき込んだだけでも、簡単に工事現場が発見されてしまう危険性があります。また、収容所は黄色をした砂地の上に建設されていました。この地層はサラサラで、トンネル掘りには向いていません。少しでも掘り進めていこうとするだけでも、バラバラと土砂が崩れて来るからです。しかも、周辺の灰色をした地面とあまりにも色のコントラストがついているため、これらの砂を掘り出して戸外に捨てたりするといっぺんに発覚してしまいます。そうした自然の悪条件にくわえて、収容所の周辺には、些細な振動音さえ探知できるという精巧な地震用の測定器まですえつけられていました。つまり、この第三捕虜収容所こそは、収容所の中でもまさに難攻不落、脱走不可能というべき最上級のレッテルを貼られた収容所なのでした。
しかし捕虜たちの意気込みは並々ならぬものがありました。まったくそれはロジャー少佐によって魂を吹き込まれたかのようでした。実に6千名以上の捕虜たちが一丸となって、この大プロジェクトに加わったのです。また、脱走した後のことまで考えて、いろいろなものをつくりださねばならず、そのためさまざまなチームがつくられました。まるで、収容所全体が大掛かりな家内制手工場と化したようでした。
つまり各人がそれぞれ専門のチームに加わって、個人の持ち味を生かして得意な技術を発揮するのです。入隊前に衣料関係で働いていた者は、毛布やキャンパスの生地を材料として軍服や上着、帽子などをつくりました。インクや他の色を混ぜることで、それらを染料として染め上げるのです。ベルト類はフイルム類をそれらしく加工します。修理工だった者は、交換で手に入れたカメラを使って証明書の写真を撮り、透かしやスタンプ類は技術職人だった捕虜の手によって彫られていきます。 地図やコンパス、民間人になりすますための衣類、ドイツ軍の将校用軍服、偽の身分証明書なども巧妙に偽造されました。そうして出来上がったドイツ軍の将校用の軍服など、ちょっと見なら本物と見きわめがつかないほどの出来栄えでした。
計画は順調に行くと思われていましたが、トンネルが掘られ出して半年も経ったころ、トンネルのひとつが発見されてしまいます。それは3つのトンネル中、最も長く掘り進められていたもので、一番、成功の可能性を秘めていたものでした。6か月以上もの間、振動音も探知されず、抜き打ちの点検、捜索などをかいくぐって、掘り進められ、延々80メートル以上もの長さにまで達していたトンネルだったです。
トンネルをくまなく調査したドイツ側は驚いきました。独自な空調設備、効果的に随所に使われた支柱、要所要所には待機できるスペースさえ設けられてあり、すぐれた建築物と呼べるほど精巧につくられていたのです。調査の上、トンネルは爆破されました。このとき捕虜たちにとって、落胆ははかりしれないものになりました。これまでの半年間にもおよぶ努力がすべて水泡に帰してしまったのです。ドイツ側はもうこれに懲りて脱走計画はないだろうと考えました。しかし、さすがのドイツ軍さえ、まだ収容所内には二つのトンネルが存在し、着々と掘り進められているという事実を知ろうはずもありませんでした。
一時はがっかりした捕虜たちでしたが、気を取り直してふたたびトンネルを掘り進めることに集中します。そして、不眠不休で頑張りとおした結果、ついに脱走の準備は出来たのです。 かくして、世紀の一大脱走劇はここに決行されました。計画では220名が脱走するはずでしたが、手抜かりもあって脱走できたのは76人。しかし、ドイツ側はこの数字でも十分にこたえました。これ以後、ドイツは脱走者の捜索に全力にあたらねばならず、2週間以上もこのことで頭を悩ますことになるからです。 付近の警察、休養中の部隊も動員され、ゲシュタポまでも血眼になって捜索をつづけました。連合軍がノルマンジーに上陸してくるかもしれないという差し迫ったこの時期に、貴重な7万名にもおよぶ兵力が釘付けにされてしまったのです。
76名のうち、ゲシュタポに捕らえられたのは50名。陸軍に捕らえられたのは12名。残り12名は行方不明。ドイツ軍にとってはいつ連合軍がノルマンジーに上陸してくるかピリピリして予断を許さぬ時期に、こうした捕虜による国内でのかく乱はさすがにこたえたようです。これに激怒したヒトラーは、得意の癇癪を起し、親衛隊に捕らえられた50名の捕虜全員を射殺しろと命じました。ロジャー少佐もこの中に混じっていましたが、このときとき帰らぬ人となりました。
結局、レジスタンスなどに幸運にも助け出され、イギリス本国に生還できた者は3名に過ぎませんでした。多くの捕虜は逃走半ばにして無念にも命を落とすことになりましたが、しかしこの脱走劇で連合軍がドイツから奪ったものは、大いなる時間と労力だけではありませんでした。
失われた威信と誇りを取り戻し、ドイツ側に一泡吹かせてやろうというロジャー少佐の目的は見事に達成したといえるでしょう。そして、いかなる逆境にもめげず、忍耐と努力を積み重ねて掘られたトンネルは、人間のあくなき向上心とチームワークの結晶と呼べるべき存在だったと賞賛されるべきでしょう。
