「建国の英雄か、恐怖の独裁者か」


毛沢東は実母に対して、他の誰にも見せなかったほどの愛情を示した

毛沢東の母親は優しく寛容な性格で、息子に向かって声を荒げたことは一度もなかった。


母親が自分の身内と住むことを望んだため、毛沢東は8歳になるまで母方の文一族が住む村で母方の親族に囲まれ自由気ままな幼年期を過ごした。


1902年の春、8歳になった毛沢東は教育を受けるために韶山へ戻った。

当時の教育は教師の家に通う私塾の形だった。


毛沢東は並はずれて記憶力がよく、優秀な生徒だったが度々教師と衝突し10歳のときに私塾をやめてしまった。やめた理由は教師が厳しすぎるという理由だった。その後も少なくとも三つの私塾を放校となったり退学させられたりした。


父親は息子の行動に不満で、親子の確執を生んだ。

父親が学費を出して私塾に入れたのは、家の帳簿をつける程度の仕事を手伝ってほしいためだったが、毛沢東は仕事嫌った。

一生を通じて毛沢東は数字が苦手で、救いがたい経済音痴だった。厳しい肉体労働も嫌った。農民を境遇を脱すると早々に、毛沢東は肉体労働から遠ざかった。


【今日の万葉集】

いも め   み  ほ     ゆふやみ  こ はごも    つきま

妹が目の 見まく欲しけく夕闇の 木の葉隠れる 月待つごとし

                          不詳

<一首の意>

あの娘に逢いたいと思う気持ちは、夕闇に木陰からなかなか出てこないを待つような気持ちと同じだ。


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