-街に歴史あり-

-街に歴史あり-

ウォーキングの途中、「街に歴史あり」という案内をよく目にします。自動車では通りすぎて分からなかった会津の歴史が、今更ながら歩いてみて街にあふれているのに気づかされました。正に、ここは歴史の街、「会津若松」です。

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400年に及ぶ蘆名時代の始祖、佐原十郎義連は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、源平合戦で有名な一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下ったのが、佐原十郎義連です。奥州合戦の功により源頼朝から会津を拝領しました。元は相模国の豪族・三浦氏の三浦義明の子で、三浦氏の本拠・相模国衣笠城の東南・佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため、佐原氏を称しました。

その子、二代・佐原盛連には6人の息子がおり、長男・経連(猪苗代氏)、次男・広盛(北田氏)、三男・盛義(藤倉氏)、四男・光盛(葦名氏)、五男・盛時(加納氏)、六男・時連(新宮氏)それぞれが家を興す事になります。

 

会津蘆名氏

初代・佐原十郎義連-二代・佐原盛連‐長男・経連(猪苗代氏)

                |-次男・広盛(北田氏)

                |-三男・盛義(藤倉氏)-盛経-盛弘(金上氏)

                |-四男・光盛(葦名氏)

                |-五男・盛時(加納氏)

                |-六男・時連(新宮氏)



猪苗代経連

亀ヶ城は、会津蘆名氏の祖・佐原十郎義連の孫・佐原経連によって築かれました。 佐原氏は三浦氏の一族で黒川城の蘆名氏とは同族であり後に猪苗代氏を称しました。天正16(1588)隠居中の猪苗代盛国は当主盛胤が蘆名義広に伺候している隙を付いて猪苗代城を乗っ取り伊達氏に内通、天正17(1589)伊達氏は猪苗代城に入城し麿上原で蘆名義広を破り会津を手中に治めました。

その後、猪苗代城は徳川幕府の一国一城令の例外として、代々城代が置かれ幕末の会津戦争で消失するまで、会津藩の重要な城として機能しました。









北田弘盛

北田城は、建久4(1193)佐原次郎広盛によって築かれました。 佐原次郎広盛は蘆名氏の祖とされる佐原十郎義連の孫で、佐原遠江守盛連の次男です。

広盛はこの地に北田城を築いて北田氏を称し、広盛の後、泰盛、盛広、重忠、正国、正隆、政泰と七代続きました。北田上総介政泰は、応永16(1409)蘆名盛政の総攻撃を受けて北田城は落城し、北田氏一族は討死して滅亡しました。

現在、北田城跡は、田園の中に、土塁の一部が僅かに残るのみです。


北田

北田

北田

藤倉盛義

会津蘆名氏の祖・佐原十郎義連の孫・佐原三郎左衛門盛義が、河沼郡藤倉 (会津若松市河東町倉橋字藤倉) に城を築き、河沼郡半郡を領し、藤倉氏を称します。盛義の孫・盛弘が、河沼郡金上 (会津坂下町金上) に本拠を移して、金上氏を称します。盛弘は、盛義の次男・石見守時盛の長子 (8人兄弟)。さらに、津川城を築き、阿賀野川上流域を支配、一族の子孫は、蘆名家を支える家臣団の重鎮として栄華を誇りましたが、15代・金上盛備が、伊達政宗公との摺上原の戦いで戦死し、金上氏は滅亡します。













青山城は、築城年代は定かではありませんが、佐原十郎義連の孫、佐原五郎左衛門尉盛時によって築かれました。宝治元年(1247)の頃に加納庄の地頭あるいは地頭代となったことにより、加納氏を名乗りました。応永9(1402)加納氏は同族の新宮城主・新宮盛俊との戦いに敗れ滅亡してしまいます。

近くに加納五郎左衛門尉盛時を祀った五郎宮神社があります。





















新宮城は、建暦2(1212)新宮時連によって築かれました。 新宮氏は佐原盛連の六男で新宮の地を与えられ城を築いて新宮氏を名乗りました。貞和5年・正平4(1349)新宮明継は小松原合戦で葦名直盛と戦い、康暦元年・天寿5(1379)北田城主大庭政康と戦って討死しました。応永9(1402)には新宮盛俊は青山城主・加納氏を攻め滅ぼし、北田城主・北田政泰と結んで葦名氏と戦いましたが、翌応永10年正月晦日に葦名氏によって新宮城は攻め落とされ、盛俊は小布瀬城逃れて尚も戦ったが五月に和を請い許されました。

応永16(1409)北田氏が葦名氏によって攻め滅ぼされると、応永20(1413)新宮時康は葦名氏によって派遣されていた郡代を討ち、高館城を築いてたて籠ります。応永22(1415)葦名盛政によって高館城は攻められたが堅く守って撃退し、応永26(1419)には越後国津川城を落としましたが、小布瀬城が葦名氏に攻略されると翌応永27年には高館城が攻め落とされ、新宮盛俊は奥川城へ逃れたが葦名氏の追撃を受け、さらに越後国五十公野に逃れました。永享5(1433)新宮時兼等の一族は再起をかけて津川城へ攻め込んだが、津川城主兼上盛勝によって撃退され、一族の大半が討死して滅亡しました。


新宮

北田

北田

北田

北田

会津九代・松平容保は、水戸藩の6代藩主・徳川治保の次男、松平義和の子、美濃高須藩主松平義建の六子として、天保六年(一八三五)十二月二十九日、江戸四谷邸に生まれ、嘉永五年(一八五二)会津八代・松平容敬(かたたか)の養子となりました。

嘉永六年(一八五三)、ペリー浦賀来朝の際、幕命によって房総の海岸防備にあたり、条約の締結にも賛成、このとき薩摩や長州など西国の強藩は攘夷を叫び、徳川幕府の開国政策に反対、京に上って朝廷の力を利用して倒幕へ進もうとしていました。万延元年(一八六〇)の桜田門外の変後、容保は水戸藩と幕府との調停にあたり、文久三年(一八六三)、幕府の改革で松平慶永と共に幕政参与を命じられました。次いで容保は、幕府の強い要請もあり、最も困難な職務、京都守護職を引き受け、入京し、孝明天皇から緋の衣を与えられました。同年七月二十八日、容保は朝廷からの命により会津藩の馬揃えを天覧に入れました。

    
 
 八月十三日、薩摩藩士高崎佐太郎が会津藩の用人秋月胤永(かずひさ)を訪れ、会津藩と薩摩藩とが提携し君側の奸臣を退けたいと申し入れ、八月十八日、いわゆる“七卿の都落ち”と呼ばれる政変に成功、十月九日、容保は二条右大臣斉敬(なりゆき)からの使いによって参内し、孝明天皇からの宸翰(しんかん)と御製(ぎょせい)を賜りました。

                

 

次いで禁門の変が勃発すると、会津藩兵はよく蛤御門を守って長州兵を撃退したが、将軍家茂が亡くなり、続いて孝明天皇も病没するに及び、会津藩がすべてをかけていた公武合体は敗れ、ここに会津藩と容保の悲運の歴史が始まります。慶応三年(一八六七)、容保は幕府の政権返上により、慶喜に従って大坂に退き、同四年(一八六八)鳥羽・伏見の敗戦によって江戸に帰り恭順しましたが許されず、西側諸藩では朝廷を味方に抱き込み錦旗を押し立てて東へと攻め下ってきました。会津藩は奥羽越列藩同盟を結び、西軍に抗戦して若松城に籠城、最後の決戦を試みましたが、白虎隊や婦女子の自刃など数々の悲劇を生みながら、

   

      
 

明治元年(慶応四年九月八日に明治と改元)九月二十二日、遂に降伏開城、戦後の容保は妙国寺の謹慎所に入れられ、その後に江戸送りとなりましたが、さきの領主である容保の出発を見送りに集った者は十数名もおらず、人々は冷淡な無関心をよそおい、すぐそばの畑で働いている農夫たちでさえも、容保を見送ろうともしなかったそうです。容保は明治十三年、日光東照宮の宮司に任ぜられ、明治二十六年十二月四日、特旨をもって正三位に叙せられたが、翌五日、病のため五十九歳で死去した。遺骸ははじめ内藤新宿の正受院に葬られたが、大正六年、会津松平家の塋域である「院内御廟(いんないごびょう)」に移葬され忠誠霊神と諡(おくりな)されました。

    
 
 



現在、会津若松市立第二中学校のある場所は、幕末までは、会津藩家老・田中土佐の屋敷がありました。

その後、昭和に入り、ここは陸軍の歩兵連隊が置かれることになりました。

現在も、地域活性化に自衛隊を誘致したりしていますが、当時もそれに近い意味合いもあったのだと思います。



当時の連隊の門の跡、地元では「赤門」と呼んでいます。


戦争も時を追うごとに激しさを増し、若松歩兵第二十九連隊にも出撃の時がきました。

その出撃先は、現在も激戦地で有名な「ガダルカナル島」でした。

小田山にある忠霊堂は、日中戦争から太平洋戦争に至る一万数千名の戦死者を弔ったところです。


【忠霊堂】











戦後70年を迎えるにあたり、改めて平和の尊さに思いをめぐらせました。

佐原十郎義連は会津蘆名氏400年の始祖である。

 三浦大介義明の7男として、三浦半島である相模国の佐原で誕生。  

保延4(1138)年の誕生説が有力。

  佐原(横須賀市佐原)に城を構え、佐原氏を名乗る。

  治承4(1180)年の源頼朝挙兵に、一族と共に馳せ参じて御家人となる。

  一ノ谷の合戦では源義経の軍に属し、"逆落とし"で真っ先に駆け下り武功をあげている。

  奥州征伐での功も加わり、会津四郡を拝領する。

  建久2(1191、正治とも)年、地頭として幕の内村に居住する。

  その後、半在家村の国府に館を築き、移り住む。

  孫の光盛公から蘆名氏を名乗り、有力な戦国大名として400年の栄華を誇ることになる。

  室町時代には、京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称するほどになった。



若松城の前身の前身というべきでしょうか!佐原義連の幕の内村館跡で

現在は、オリンパス会津工場になっていて、当時の遺構は残っていない。




1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。


現在の鶴ヶ城三の丸に残る、東黒川館の土塁跡



1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。


代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。

当時、蒲生氏郷が築いた七層の天守を頂いた鶴ヶ城




1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。


上杉が築きかけた幻の城・神指城跡






1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。

1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。1868年(慶応4年)、戊辰戦争の際には会津戦争にて、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったが、その後開城された。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。


会津戦争直後の鶴ヶ城

解体され天守台のみの鶴ヶ城




現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されている。

1990年(平成2年)に茶室「麟閣」(福島県指定重要文化財)が本丸の元の場所に移築復元され、1993年(平成5年)に外濠跡等の外郭遺構の一部が国の史跡に追加指定された。1997年(平成9年)に史跡内の駐車場や運動施設等を史跡外へ移転する内容等を含む長期的、総合的な「史跡若松城跡総合整備計画」が策定された。2001年(平成13年)に本丸内の干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋が復元された。

2010年(平成22年)から、黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ2011年(平成23年)3月に竣工した。また、本丸の御三階櫓も併せて復元される予定である。





  • 佐原十郎義連は、治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越

    の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇として『平家物語』に描かれているそうです。

    文治5年(1189年)7月の奥州合戦にも従軍し、その功により、陸奥国会津を与えら、

    義連の庶流が会津蘆名氏を称して有力な戦国大名となりました。




    喜多方市熱塩加納町宮川字墓の西

    当初、この地に館城を築いたとのことですが、その面影はありませんでした。











    保科(松平)家からも手厚く保護されたという事です。




    佐原十郎義連の墓と、その家臣の墓と伝わっています。