不死身だと思うほど元気であった母方の祖父が、どうもここ一ヶ月ほど前より調子が悪いようで入院しているらしい。
母は沖縄県石垣島の生まれで、祖父は現在も石垣島に住んでいる。
御歳94になるのだが、つい数年前まで誰にも告げず一人でひょっと飛行機に乗り那覇まで小旅行に行ってしまい、同じく石垣に住んでいる母の兄弟一同を心配させたり、一昨年、僕が亡くなった祖母の墓参りに行った際、石垣島に住む親戚一同が、一人訪れた僕のために小さな食事会を開いてくれたのだが、そのときもビールに始まり、間を空けず続いて泡盛をロックで豪快に飲み干していた小柄で無口な祖父の底知れぬパワーにすっかり驚いたりした。
そんな祖父であるから現在病院で寝たきりという知らせを受けたときはにわかに信じられない気持ちであった。
最新の母の話だと現在はやっと車椅子に乗って食事も取れるようになり少しずつ元気になってきているとのことでひとまずは安心といったところだろうか。いやはや、もう年も年だし、くれぐれも無理はせず体に気をつけていつまでも健康でいて欲しいものである。
祖父は何より書物が好きで、家には自分用の書斎ある。
高校の頃一度だけ祖父の書斎に入ったことがある。書棚には沢山の本が無造作に並んでおり、民間伝承や歴史の文献などが多かった気がするが、司馬遼太郎の全集があったことははっきり覚えている。「おじいちゃん司馬遼太郎好きなの?」と尋ねると「好きだ」とぶっきらぼうに答えてくれた。
祖父の部屋は書斎をはじめどこもかしこも雑然としており、あっちゃこっちゃにいろんなものが置かれ混沌した様相を呈している。にもかかわらず同居している叔父の夫婦が勝手に部屋を片付けたりすると、自分好きなように配置しているのに勝手に片付けるな!と怒り出すという頑固で面倒くさいジジイらしく、この入院をチャンスとばかりに一斉に部屋の片づけをしたという笑い話を母と叔父の間で交わしたようなので、察するに大分祖父も調子も良くなって来てはいるのだろう。
また祖父はもともとの書きもの好きが高じて、地元の新聞に月一回(週一回なのかな?)随筆のようなものを連載している。数年前、母が「来年あたり内地(本州のこと)に遊びにきたら?」と尋ねると「3月までは新聞社との契約があるから、それまでは無理だ」といっちょまえに文人を気取っていたようで、その話を聞いたときは思わず笑ってしまった。
投稿は日を重ねるごとに増え、今から10年前の84歳のときには、それまでの投稿をまとめて自費出版という形で一冊の本も出版した。
祖父のデビュー作である。
それからも連載を重ね、今では出した本は計3冊にわたる(まあ自費出版だけど)。
出版されると必ず20冊くらい送られてくるので母の書棚には祖父の同じ書物が何冊も並んでいる(笑)。
おじいちゃん、次回作も期待してます。いつまでも元気で長生きしてください。
最後に祖父の文章の中で個人的にひときわ心に残っている話があるので少しだけ紹介させて頂きたい。
昭和15年、沖縄に当時の流行作家・菊池寛が講演会を開くという機会があったらしく、若き文学好きの学生であった祖父は、これは黙ってられぬと会場にもぐりこんだときの話だ。
ご存知菊池寛は『父帰る』や『真珠婦人』といった名作の著者であるほか、雑誌『文芸春秋』を創刊した人物であり、直木賞、芥川賞の創設者でもあり、存命中は日本の文壇の最大の権威でもあった。
そんな菊池であったが、昭和15年当時の沖縄県知事と旧知のだった仲らしく、知事の招きに応じる形で船便で3泊4日をかけて沖縄まで講演を行いに訪れたらしい。当時は民間の空路は無かったのだ。
菊池は、マスコミからチン(犬)がくしゃみをしたような顔とからかわれていたが、はじめてみた彼の顔は、なるほどブルドックに似ていた。ずんぐりとした背丈にチョビひげを生やし、髪はバサバサで眼鏡の奥の細い目をしょぼつかせながらトツトツと喋った。
彼はのっけから、滅私奉公だの、八紘一宇、大東亜共栄圏などと、はやりの勇ましいことばを並べて、県民を戦争にあおっていた。そして壁に貼った大きな紙には、サクラの木、散る花、雲の上の神様という奇妙な線描画が描いてある。つまり、サクラの花のように美しく咲いて、いさぎよく散り、神にまつられることが大和魂だと言った。私は自分の耳をうたがった。文壇の大御所ともあろう菊池が、こんな子供だましの話で、お茶を濁すのかとがっかりした。
(…)やがて戦場となる那覇市で、戦争派の菊池の講演は、彼の多くのファンに支えられて、皮肉にも大盛況のうちに終わった。
それから四年後の、昭和19年の十・十空襲で那覇市は焼け野原となった。