備前焼まつりで、俺が個人的に一番楽しみにしているのは、
備前市内の小学生たちが作った作品が見られることだ。
毎年、新幹線の高架に近い福祉センターみたいなところに飾られるんだが、
もちろん今年も行ってきたぞ。
備前焼の本拠地である伊部小学校の子どもたちが作った創作埴輪だ。
埴輪ではなく土偶と呼んだ方が適切かな…。
俺は陶芸において本物の芸術として評価できるような、
素晴らしい作品を作り得るのは子どもたちだと確信している。
どの作品にも子どもたちの無垢で純粋な思いが、
そのまま作品に反映されているではないか。
実際展示をナマで見ていると、
そこに子どもたちがいて、
ワァワァと言いたいことを好き勝手に喋っているかのような感じだった。
備前焼まつりに参加している店やテントには、
どこでも大抵1枚は牡丹餅の皿を売っていたが、
俺がぜひ入手して家の壁に飾りたいと思った牡丹餅の作品は、
このくまちゃんの壁掛だけだった。
いや、プロの作った作品が駄目だと言うのではなく、
それはそれとして十分すぎる価値を持つ作品だが、
くまちゃんの壁掛はそれ以上に何か訴えてくるものがあるのだよ。
このくまちゃんの壁掛を作った子が、
もし俺に“おじちゃんにあげる”とプレゼントしてくれたら、
俺は喜んで自分の家の一番良い壁に掛けておき、
死ぬまで毎日眺めているだろうな。
大人が同じタイトルで作品を作れと言われたら、
絶対にこれは作らんと思う。
なぜ作らんのか?
周囲から“なんだこりゃ”と笑われるのが怖いからだ。
だから大胸筋や腹筋あたりは、
ボディビルダーのイメージで造形するのさ。
で、結果としてたくましいイメージが希薄な作品になる。
ただ単純に“たくましい男”を作っただけであろう、
この子の作品の足元にも及ばん、
陳腐なありきたりの“男の裸像”となるのだ。
俺も含め大人になると、
こうすれば見栄えが良い…みたいな計算や、
これなら評価されるだろう…みたいな邪な思惑が、
作品に介在してしまう危険を常に孕んでいる。
作品を売ることで生計を立てる人間ともなると尚更である。
子どもたちのようにあっけらかんと表現できたら、
どんなに素晴らしいかと思う。
ほんと…おじさんはすっかり汚れちまったんだよなぁ…。
しかし…備前の子どもたちは皆巧いわ。
俺も地元の子どもに陶芸を教えているが、
レベルが違うのは子どもの資質ではなく、
指導者の腕の違いが大いにあるだろう。
いや、頑張らねば…。
来年は子どもたちに埴輪や土偶を作らせよう。
備前焼は彩色で誤魔化しが利かんから、
逆に作り手の想いがそのままストレートに表現しやすいんだろう。
だからこそ難しいんだけどね。
来年もし備前焼まつりに行かれる方がいるならば、
子どもたちの備前焼だけは絶対に見逃すべきではないぞ。


