北方へと続く大街道は悲嘆に暮れた人々で埋め尽くされていた。誰もが俯き、涙の跡が頬にあり、沈黙の中で不安と恐怖に耐えていた。1000年続くと信じていた平和は脆くも崩れ去った。そう信じていた事でさえ今では遠い昔の事のようにしか思えない。
傷病者の呻き声と赤子の泣き声が響く。人々の足取りは疲れ切った鉱山奴隷のように重い。それでもついていけない者たちが街道を離れ座り込み、やがて来るであろう死を待っていた。気が触れた者も多くいた。沈黙する人々に代わり彼らは泣いていた。微笑みながら泣いていた。灰色の空を見上げているがその目には何も映っていない。彼らの心は硝子のように砕けていた。
死衣と死者と死臭。誰もが死を目撃した。それはすべて近しい人の、愛する人の死であった。あるはずのない死であった。平和の中で生まれ平和の中で生きた人々の心にはあまりに多過ぎる死であった。
弔いはない。祈る言葉さえない。それを聞く神々もいないであろう。
無慈悲という言葉をはじめて知った人々は歩き続けた。せめてこの心を充分に悲しませてくれと、それを許してくれる場所を欲して歩き続けた。
今、北方へと続く大街道は長い葬列が続いていた。人々は葬儀を求めて歩いていた。悲劇に不慣れな王都の人々は、葬儀を執り行ってくれる誰かがこの先にいると未だ無邪気に信じていた。
王都ライレリアは陥落した。オーク軍の猛攻の前に成す術もなく、瓦解した。石の壁は崩され、鉄の城門は打ち破られた。
誇り高きライレリア白獅子騎士団の多くは奇襲作戦で討ち死にし、精鋭ぞろいで知られる王都防衛軍は市民を避難させただけで、その戦力の半数を失った。ライレリアの豊かさの象徴である「冬の種」は、その所在すら定かではなかった。
ライレリアは亡国の危機に瀕していた。
「この人たちは、これからどうするのでしょうか?」
若き騎士ソローは独白するように言った。幼い頃に母と姉を失った影響なのか、彼はそのように物を言うことがよくあった。
「北方には彼らを養うだけの糧はない。行く当てもなく、飢え、凍えるだろう」
祖父の老騎士隊長マレーは答えて言った。愛馬の落ち着きの無さよりも、若く経験の浅いソローの動揺を気にしていた。
「冬の種の所在さえ分からず、その上、王と貴族たちが民よりも先に王都を捨てたという話は既に誰もが知るところ。彼らは信じていたものの、ほとんど全てを失った。あまりに惨たらしい。せめて冬の間だけでも何とかしてやらなくては」
マレーの子であり、ソローの父であるハーシュは行動力のある男として知られていた。父が頼る副長としても騎士たちの尊敬を集めている。そんな彼は未だ王都を離れた避難民のために何かしてやれる事があるはずだと信じている。マレーはそんな我が子を横目に盗み見て、危ういものを感じざるを得なかった。
「行こう。王が待っている」
マレーは子と孫の返事を待たず愛馬を走らせた。ふたりが後に続く。
(民を捨てて逃げた王、か)
王については何も考えないようにしていた。考えてしまえば不満が出てしまう。先代の王ならばこのような事には決してならなかった、とはふたりの騎士の前では口が裂けても言えなかった。
しかし我が身の事についてならば、ついつい言葉の端に出てしまっていた。おそらくふたりの騎士もマレーが我が身を省みて、こんな事ならば早く隊長の席をハーシュに譲っておくべきだった、と思っている事を察しているだろう。家族とはいえ弱音を知られるなど、俺も年を取ったとマレーは思わずにいられなかった。
王は開けた場所に豪奢な幕屋を立てさせ、そこで休憩をしていた。虚飾の剥がれた儀仗鎧を着て辛うじて体面を保った近衛兵たちが周辺を警護している。マレーたちの姿を見ると彼らは何とも言えない顔をして迎えた。名誉ある王国軍の将兵に恥などあってはならない。しかし今の彼らにとってその規範は酷なものだった。避難民のすべてが彼らのした事を知っていた。そしておそらくこれから出会うであろうすべての北方民も知っているだろう。マレーは彼らの不幸に同情した。彼らは果たして敵前逃亡の罪に問われるのだろうか。王命とはいえ民を見捨てた事は事実だった。軍法に照らせば無罪であり、ライレリア王国民の心情によれば、許されざる者たちだった。緊急の議会が招集された時、せめて王が彼らを擁護してくれるようにと、マレーは祈らずにいられなかった。
「マレー殿」
隊長格らしき男がマレーの前に進み出た。
「おお、マーティシオ!マーティシオではないか!お主、無事だったか!」
兜を取ってすぐ目の前に立つまで、近衛隊隊長が年下の旧友であることに気づかなかった。若い頃を知る数少ない友であるマーティシオはあまりに憔悴しきった様子だったため、人相までもが変わってしまっていた。決して口に出して言えたものではなかったが、古い友は4本も牙の抜けた老猫のような顔をしていた。
「死んだ方がマシでしたが、このような有様で、行き恥を晒しておるという次第でして。不名誉な事に死に場所を見極められませなんだ」
真実であればこそマレーの胸には痛いほどよく伝わった。
「何を言う、マーティシオ。今のお主は生きて陛下にお仕えせねばならぬ身ではないか。はっはっは、お主が近衛の隊長の任を拝命していたとはな。昔わしは言ったであろう?お主は必ず大任を任されると。真であったろう?いやあ、無事で何よりだ、懐かしき我が友マーティシオよ。生きて再会できて嬉しいぞ」
はっとしてマレーは素早く周囲に目を配った。近衛隊とハーシュ、ソローの他には誰もいなかった。もしも北方民がいれば、「あれが王都から逃げてきた近衛隊隊長のマーティシオか」と、余計な事を知られるところだった。
「さあ、マレー殿。陛下にお目通りを」
「陛下はご無事か?」
「はい。それだけが我が命の糸を繋ぎとめる唯一の理由です」
「おお、そうか。ご無事か。それは何よりだ」
ハーシュとソローを伴い豪奢な幕屋へと進みながら、今更王がどうしたと言うのだ?とマレーは心中思わざるを得なかった。
幕屋へ入り、御前へと進み、跪いた。マレーは失望した。そこには王の権威を感じさせるものは何もなかった。俺は今、ライレリアの亡骸を前にして跪いているのだ、と心の声が飾る言葉も無く言った。湧き出る心の声を無視するのは並の忍耐ではなかった。
ライレリア王は首を細く伸ばして老騎士を見た。
「マレー?貴公があのマレーか?辺境の騎士たちを率いる騎士隊長の?マレー、化け物どもが攻めてきたのだ。王都を奪いおったのだ。余を守る兵力はもう半数も残っておらん。北方へ行かねばならぬ。マレー、余を守ってくれるか?」
「陛下、我らの当然の務めでございますれば」
王は妃と手を握り合ったまま寝台から出ようともせず、怯え切っていた。その言葉の軽々しさときたら辟易するほどだった。壮年を前に成熟を知らず、王冠の輝きを鈍らせる脆弱さが王の衣から透けて見えるほどだった。
「北方の要塞はまだ遠いのか?」
「はい。北方は広大でございますゆえ、我々が鴉群れ砦と呼んでおりますあの要塞までは、若い軍馬で三か月あまりの行軍が必要でございます」
実際には八か月、下手をすれば十か月はかかるだろうとマレーは予想していた。
「そ、そんなにかかるのか?し、しかしオーク軍は余を追ってくるであろう?貴公はオーク軍を撃退出来るのか?」
「陛下。オーク軍が追撃するかどうかを今判断するは早計かと存じます。ですが陛下を要塞までお送りするだけであれば、近衛隊をもってすれば十分その任を果たすことが出来ましょう」
「真か?近衛隊だけでも余を守れるのか?そ、それでは余は安心してよいのだな?」
「陛下。王の心とは王のみが知るものでございます。一介の騎士に過ぎない私がどうして陛下のお心を知ることが出来ましょうか」
「あ、ああ、そうか。そうであったな。父王も同じ言葉を遺しておられた。マレーは父王に謁見した事はあるか?」
「はい、陛下。自由騎士であった私を重く用いてくださったのは先王陛下であらせられます。私はそのご恩に報いる為、こうしてこの地の騎士となりました」
「な、なんと。そうであったか。で、では、マレーは我が父に剣を捧げたのだな?父上から直接爵位を賜ったのだな?」
「仰せの通りでございます」
「な、ならば、マレー。辺境の騎士隊長マレーよ。今は亡き父王に代わり余が貴公に命ずる。オーク軍を殲滅せよ。王都を奪還するのだ」
まるで驚いた鳩が飛び立つような王命だった。しらけた酒場にも似た気だるさを誰もが感じた。侍従と警護の者らの抑えきれないざわめきがマレーにも伝わった。が、後ろに控えているふたりの騎士からは微塵も心の揺らぎを感じなかった。それがマレーの心を充分に慰めてくれた。誇りに思い、笑みがこぼれそうだった。
「御意のままに」
軽くもなく重くもなくマレーは言った。
「は、はは、は、素晴らしい。マレー、貴公の忠誠心は他の良き模範となろう。余が王都に帰還したあかつきには貴公をライレリア公爵に任じよう。よかった、よかった・・・」
王は満足なされた。騎士に言うべき事は無かった。これが今のライレリアだった。
マレーたちが幕屋を出ると異様な雰囲気に取り巻かれた。将兵たちは何か得体の知れない恐ろしいものを見るような目で、三人の辺境の騎士を見ていた。彼らはマレー達を自ら死にゆく者達だとはなから決めてかかっていた。無理もない事だった。
(王都の将兵は、こんなものか)
あえてマレーは無反応を決め込み旧友にだけそっと語りかけた。
「我らはこの地でオークどもを食い止める。陛下を早く鴉群れ砦へ」
「マレー殿・・・」
良き友の肩は震えていた。涙もその目に光っていたかもしれない。マレーはそれを見なかった。彼らの世代の美学によれば、騎士の涙とはすべてが終わった後に見るべきものだった。
「おお、マーティシオ。まさか気弱になっておるのか?お主ほどの勇者が?しかしお主は鴉群れ砦を訪れたことがないのであろう。あの要塞ほど堅牢なものはない。案ずるな、友よ。吉報を待っていてくれ」
マレーが言うとマーティシオはしっかりと目を見つめ、両肩を男らしく掴んだ。マレーもマーティシオの肩に手を置いた。
「誉れある騎士マレー・キュリエムの剣に光を」
「誉れある騎士マーティシオ・レル・オースの盾に光を」
古めかしい騎士の挨拶を交わすのは久しぶりだった。マーティシオの目から堪えきれない涙がこぼれた。マレーはマーティシオの耳元に口を寄せて言った。
「民を頼んだぞ、マーティシオ」
「民を・・・」
その一言にマレーが現王をどう思っているのかが集約されていた。誓いを立てた騎士として本来あってはならない事だったかもしれない。しかしマレーがそのような事を恐れる武人ではないことをマーティシオはよく知っていた。返す言葉がなかった。
忠誠は剣、忠誠は盾、忠誠はライレリア。すべてのライレリア騎士はそのように君主の前で誓う。マレーであれば宣誓の言葉そのままに行動するとマーティシオは常々思っていた。が、しかし、まさかこのような形でその時が訪れるとは思っていなかった。
老近衛隊長は辺境の老騎士隊長の背中を見送り、せめてその言葉を違える事だけはすまいと我が身を戒めた。