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本についての自論。長文注意。


本について。


僕は人と比べてみれば、読書の少ない人生だと思う。小学生の頃に伝記をほんの少し読んだ事を覚えているが、きっと嫌々だったのだろう。ライト兄弟もマザーテレサも野口英世もあんまり覚えていない。読書感想文だって大嫌いだった。

中学生の頃は特定のものは読んだ。宗田理のぼくらシリーズ、赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズ。世代作でも無いこの二シリーズをなぜ集中的に読んだか、動機は詳しく覚えていないが、多分、ぼくらシリーズはシチュエーションが同じ中学生だったから投影し易かったのと、三毛猫~は主役刑事が片山、片岡に似てたからとかそんなあほっぽい理由やったと思う。このシリーズはとにかく読んだ(図書室にあったからだったっけかな)。あと、日本史が好きだったから司馬遼太郎も読んだ。だけど、ストーリーものはあんまり覚えていない。とにかくエッセイが好きで読んでいたが、理解出来はじめたのは二十歳を越えてからだと思う。


その後、本格的に音楽活動、創作活動がスタートした高校~大学時代なんかはほとんど読書などはしなかった。話題の本が出版されて買ったとしても、数ページ読んで放置だったり。音楽仲間や先輩に勧められた太宰治や三島由紀夫も、一作品くらい読んでは見たものの、仲間と同じ感動は得られなかった。それもあってか、さらに読書からは疎遠になった気がする(三島由紀夫は最初に読んだ本が潮騒*純文学、だった。後日、三島フリークの方にはそこが駄目だったと指摘された笑)。


二十代前半は少し読んだ。音楽、創作活動に益々熱が入り、唯我に活動を続けていた僕にも尊敬する師が出来た。厳かな世界観から、色んなものを盗もうと背中を追い、師の詩集に目を凝らした。しかし何気ない会話の中で知った、師に影響を及ぼした文学は意外にも純文学だった。単純な僕は有島武郎、川端康成、夏目漱石、森鴎外を読んだ。頭に深く入ったかはどうかはさて置き、とにかく読んだ。



以降、デビューするまではまた読書はしなかった。アルバイトと音楽活動、時間に追われていた。というより、読書など頭の中からは消えていた。読書は音楽作家の栄養、と例えられるくらい作家としては読書を勧められてきたし、多くの音楽仲間が読んでいた。気がする。どんな作家が好きで~みたいな話が打ち上げとかでもなされていた気がする。それでも僕は断続にも満たない読書量だった。


実際、未だに東野圭吾を読んだ事が無い。石田衣良、角田光代、重松清、宮部みゆき、リリー・フランキーも読んだ事が無い(村上春樹は読みかけです)。インターネットニュースでもテレビでも見る名前だし、音楽仲間のブログでも、ソーシャルネットの誰かのブログでもよく見るくらい人気作家だけど僕は未だに読んだ事が無い。



2010年秋。間もなく11月に入るという頃だった。事務所宛に支持者の方から本が届いていた。有川浩の阪急電車という本だった。兵庫県出身の僕としてはタイトルにはもちろん反応したが、それくらいだった。セカンドシングルのキャンペーンやCBCレギュラーが始まった頃で移動が多かったし、季節的にも秋だった。まさか自分が移動中に読書~?なんて思っていたし、なにしろこれまでの読書歴を自分自身が一番解っていたので、時間があれば暇つぶしにと思って鞄に入れておいた。


CBCレギュラー収録の帰りの新幹線だったと思う。なんとなく、鞄の中の本を手にとった。西宮市の風景が浮かんだり、田舎の山陽電車から乗り継ぐ事などを思い出したりしながら、気付けば新幹線を降り、JR線の中も、バスの中も、なんなら帰宅してそのままソファで読み続けていた。気付けば夢中だった。

本の中のタッチは日常からあまりにも近くて驚いた。ある種、作詞家としての感覚と近くて驚いた。そんな事を覚えている。

その直後、事務所の先輩にこの話をしたら、先輩も読書にどっぷりらしく、村上龍のとある本を僕に勧めてくれた。長編小説だったが、これもまた見事にハマってしまった。移動中も、宿泊先も、家に居る時だって時間を見つけ読んだ。気付いてしまったけど、とても感情豊かで幸せな時間だった。


この話をA&Rの三上さんに話した。すると三上さんは超読書家らしく、たくさんの素晴らしい本を大量にプレゼントしてくれた。そして僕はまんまと全て読んだ。



それでもまだ。

僕は人と比べてみれば、読書の少ない人生だと思う。週に一冊なんて読めていないし、継続的、断続的読書家の皆さんからすれば色んな作品や作家を知らない。それでも、読書って素晴らしいと本当に思えるようになって八ヶ月。二十冊弱にたくさんの感情を抱いた。

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何が言いたいか解らなくなってきたが、今の僕は読書が好きだ。本当に必要なものは、自然と自身の身に入っていくものなのだ。

僕にはようやく、そんなタームが来たみたいだ。僕は、ようやく楽しんでいる。




カタオカ〆