前回お話しした”恋ヶ窪”という地名にまつわる伝説。
もう少し詳しく紹介します。
ここ恋ヶ窪は、中世鎌倉街道の宿場として栄えたといいます。
さらにそれ以前、源平合戦の頃、宿場に夙妻太夫(あさづまたゆう)
という遊女がいたそうです。
彼女は、後に鎌倉幕府の重臣となり「坂東武士の鑑」と称された
畠山重忠と恋に落ちます。
ところが、夙妻太夫に横恋慕するもう一人の男がいて、
その男は「畠山重忠は平家との西国の戦で討ち死にした」と
ウソをつき、何とか二人の仲を引き裂いて諦めさせようとします。
しかし、この讒言を聞いた夙妻太夫は深く悲しみ、
姿見の池に身を投げてしまったということです。
”恋ヶ窪”の地名はこの伝説により生まれた・・
となるわけです。
もう一つは”鯉”の話。
このあたりは北側が一段高い段丘になっていて、
その下には豊富な湧水があることで知られています。
姿見の池もこの湧水から生まれ、
また東側に少し離れた日立中央研究所の敷地にある大池は
調布や世田谷を流れる野川の源流です。
こんな土地柄なので、
湧水を利用して鯉を育て、旅人に供したことにより
”鯉ヶ窪”と呼ばれるようになった・・
”恋ヶ窪”にまつわる地名説話はこの二つです。
まぁ、伝説は伝説として
深く考えることもないのですが、
明らかにどちらも文字から生まれた話です。
ということは、”恋”や”鯉”が当て字される前、
”こいがくぼ”の”こい”とは、
本当のところ一体何を意味していたのか。
新潟に”恋ヶ浦”、広島に”恋ヶ浜”、石川に”恋路”・・
文字は無関係でも、このへんと比べてみたくなりました。
(つづく)
(国分寺市東恋ヶ窪)