東京都知事選挙。

都民ではないので投票権はありませんが

勤務地は都内だし
東京の影響力は全国に波及するので、
いい加減小池さんじゃなくて結構。


最近
アーティストや著名人も自分の意見を語ってて頼もしいです。


特に表現者であるのなら、
自分を形成する要素のひとつとして
そこだいじだろ、と思うし。




サブカルチャーという言葉については
今でも曖昧にしか理解できてないのですが


いわゆるサブカルのシンボル?みたいな扱いされてきた某アーティストがどんどん権力側に近づく言動を見てきて、
文化がこんなふうに煽動に使われるのは嫌悪しかないな〜全く。
と思ってきたので

(はなから私はその人物の表現活動に懐疑的だったので、その人がなんかやる度にやっぱりこいつは胡散臭いなーと確認を固くしてきただけのことですが…)


育った九州にもほかの土地にも好きな場所はたくさんあって、東京に執着はない。
が、
東京にいろんなものを見せてもらったし
今もそれは続いていて

いろいろ課題はあるにしても
東京という都市が好きなので
もう変な方向へは向かってほしくないのです。


投票権ある人には選挙行ってほしい。




本題。











東京都杉並区の西荻窪に住み始めたのは1984年。



当時は若かったし(10代後半🤭)

今よりもっとわからないことだらけでしたが


今みたいな情報環境ではなかったため

当時自分が欲しくても地元では得られなかった「カルチャー」のいろいろが、東京にはあった。




知らないからこそ背伸びして

この時代

映画や芝居や展覧会を観たり

音楽を聴いたりして過ごせたことは幸せだった。



と言い切れる。



何より、その頃動いていた街の空気をリアルに吸えたことが。



西荻窪や吉祥寺、沿線の中野や高円寺なんかには面白い人達や店が多かったし

何より音楽好きにはね。楽しい街です。



このころのミニシアターと映画は

渋谷抜きには語れず



六本木や銀座はおとなの場所だったから

背伸びにも気合いが入ったものでした。



あるいは

学生時代、ゼミの資料探しには神保町の本屋廻りが必須でしたから

(ネット検索などなかった時代、調べものは絶対に本にあたらねばならないのが常でした)


神保町にあったため岩波ホールは映画館なのだけどまるで図書室の延長みたいな気がしてました。





新宿はいちばん近い繁華街で


目次にもある、新宿のシネマスクエアとうきゅうで観た作品のパンフの一部。



実家に置いてて地震にあいながらも

なんとか綺麗な状態で今も残ってくれている、

80年代リアルタイム上映時に映画館で買ったもの。



ここのパンフレットはサイズが独特で小さめだったのです。



ケン・ラッセルのケレン味にハマって英国のクセ強監督好きに拍車がかかったり



 




右はまだ若きダニエル・デイ・ルイスが演じたロンドン下町の青年の物語。



移民の問題や同性愛の当時のリアルを意識させられた映画でもあり


その後ロンドンの街中にあるランドリーを見かけると、この映画を必ず思い出しました。



興行収入は今ひとつだったと本に書いてあるけど名作です。





左のマッチョ表紙はジャン・ジュネの原作をファスビンダー監督が映画にした作品で


当時は斜めに背伸びして

ジュネの小説をわかったふうに一生懸命読んでいたものでしたが


その世界観に入るには、ハードルは高かった。





それでもよかったんですよね。


別にわからなくても。

興味に突き動かされて求めた結果であれば。


映画や本では

異なる人生だったり未知の世界観だったりが繰り広げられており



今も昔も

私はそこに「わかりやすさ」や「共感」や「確認」を求めてはいない。








でね

ここのパンフにはシナリオが載ってたんですよ。






読みものとしても濃厚な

贅沢なパンフレットだったのです。



薔薇の名前の原作は

これこそ背伸びして読んでも難解すぎて

結局理解などとても出来ないものでしたが


知らないことを知りたくて

高い壁をよじ登っては滑り落ちまた登る行為は快感だったし


とにかく飢えていたからね知ることに。





それは知識ファーストなどという話ではなく、


世界には知らないことばかりだったがゆえに

惹かれるものを求め追いかけたかったのだ

という、熱量の話。






さて「ミニシアター再訪」。

この本にある言葉のとおり

映画館はまさに「学校」でした。




この本のすべてのページが

映画への愛あふれる言葉に満ちているのですが、

特に印象的な言葉がいくつかありました。



ある「映画人」の言葉のなかに次のような記述があって(ざっくり大意)



『映画館で映画を観る、とか本を読む、という行為というものは、

自分と作品世界との間に

「映画館という場所」や「本というモノ」が物理的に存在していて、それが客観性に繋がっている。



例えば映画なら2時間、

読書ならその一冊、

他の人の人生を経験してきて、「そこから出る」という作業は大切であって


そうすることで、自分と他者とを意識する。』



これは音楽だとか、ほかのことにも言えると思っている。





人によっては

映画や本の世界に「自分の物語」を求める人もいるのだろうけど



映画を観たり本を読んだりすることは

他者との対話みたいなもので、

自分と世界との境界を知る有効な手段でもある、と私は思っていて

(大げさだけど)



この方の言葉が大変腑に落ちたのでした。




悩んだり迷ったりわからなかったりしたら

とりあえず映画を観るか本を読むかしてきたけど


まあまず簡単に答えは見つからない。


だけど

精神の置き場所を変えてみることは出来てきたような気がする。



(映画の話だとクドくなってしまいかたじけない…)




まとまりませんが




カルチャーは大切。


そしてそれを生み出すにも享受するにも

そのためにはどんな社会なのか、は重要なので



カルチャーを枯らさないために私達は何をするのか🤔









また歳取ったのでケーキ(笑)