少し前に過ぎてしまいましたが、先日は「節分」でした。今日のお題は「節分」とします。タイトル画像が無かったので、鬼の絵を描きました。赤鬼です。
鬼より狐面を描きたい欲が出てしまった。
家に鬼が来なかったので退治するものは特に無かったのですが、季節の行事の一つとして家中に豆をばらまきながら一日を過ごしました。福が内に入ってきますように。
節分と言えば、豆。鬼にぶつける豆。年の数だけ食べる豆。枝豆の仲間とは思えない味の豆。片付けそびれていたのが4日5日あたりに出てきて、踏みつぶして足ツボみたいになるあの豆。
そう、大豆です。
私は小さい頃から節分に食べる大豆の素朴な味が結構好きで、年の数と言わずもっとたくさん食べられたらと思ったものです。
小学生だったその昔、節分の給食で豆が15粒くらい入った小袋が出たときは、それはそれは喜びました。イベントを反映した給食って、それだけでなんか特別感があって好きだったな。
それと同時に強く記憶に残っているのが、一緒に食べた給食班の中に、「(自分達は)8歳だから、7粒は残さないといけないんだよ」と言っている子がいたこと。クラス全体を見るとそんな子が他にもいて、確か4、5人くらい。「せっかく出してくれたんだから残さず食べたらいいのに」と思っていた私は普通に完食した気がしますが、豆をきっちり残している子のトレイを見た時に、謎の罪悪感を感じてしまったのを覚えています。きまりと食べ物、どっちが大切なの?という議題でしょうが、私は今でも、そして多分この先も「食べ物が一番大事派」です。ごはん、粗末にしたくないんだもん。
食べる豆の数は年の数だなんて、節分にはそんな決まりがありますが、小さな子には、とりわけ豆好きな小さな子には、なんときつい縛りではありませんか。
豆まきや鬼退治を一種のエンタメとして楽しむ年齢層は割と低めなんじゃないかというイメージがあるのですが、年齢が低ければ低いほど、節分を楽しめる子達ほど、かえって食べて良い豆の数が少ないというのは、どうにかならんのかね、と思うのです。
最もこのようなお決まりに対して馬鹿真面目に従うことさえ無ければ、何の問題もないことですが…だけどご家庭によっては、それこそ鬼のように節分のルール(?)を守る保護者がいるところだってあるかもしれない。本人の意志によらず、食べて良い豆の数を制限されてしまう子が、この世界にはいるのです。多分。
「んまっ!あなたはまだ7つなのに、9つもお豆を食べちゃったの💢いけません💢罰として、来月のひなあられは7粒だけです!」
こんな鬼母のもとに育つお豆好きな子だっているかも知れません。その子はきっと、ただ豆粒を少し多く食べただけで怒られるだなんて…と何だか悲しくなってしまうでしょう。節分の日に限りですが、気の毒でなりません。ところで「いけません💢」って、リアルの世界で聞いたこと無いな。
豆好きの度合いによると思いますが、好きな子であれば豆くらい数十粒なんて割と平気で食べられるんじゃないでしょうか。であれば、その「馬鹿真面目な家庭の豆好きっ子」が満足するには、おじいちゃんおばあちゃんになるのを待つしかない。70歳で70粒。80歳では80粒。そのくらいになって初めて、豆好き老人(元豆好きっ子)は、ようやく安定した節分ライフを満喫できるようになるわけです。
しかし、ここで問題があります。
それは、節分の豆のおいしさは恐らく「節分に食べる」という特別感が上乗せされた結果であるということ。悲しいかな、節分の豆というのは、所詮ただの大豆なのです。それを知らない、或いは知っていても、節分に対して「豆まきの日」という遊び要素や非日常性を見出している純粋な子どもであるからこそ(あと若くて歯が生え揃っているからこそ)、節分の豆とは美味しく頂くことができるのです。乾燥した炒り大豆をこれだけ多くの人がおいしいと感じるのは、きっと節分が特別な日だからです。お豆を撒いて、市販のかわいい鬼のお面で笑って、泣いちゃった子をみんなで宥めたその後に、家族や友達や大切な人と一緒に食べる、節分だけの特別な食べ物だからです。
20歳くらいになれば大概の人は節分の豆とはただの大豆に過ぎないことを知り、70、80のおじいちゃんおばあちゃんになる頃には、そもそも歯が弱弱しくなり硬い豆を咀嚼すること自体が難しくなってしまっている。そんな豆好きのご老人達に70粒も80粒も豆を与えたところで、「わしはそんなにいらないよ」と、お孫さんに分け与えてしまうでしょう。そう、豆好き遺伝子を受け継いだ、まだ8歳のお孫さんに。給食で8つしか豆を食べられなかった、あの小さな豆好きっ子に。
