色はみな人によっての差なく同じように見えてるんだろうか



同じ形のものを見たのに人によって連想するものが違ったりする
連想とかではなく別のものに見えるということすら時々ある



色も同じことがあるのではないか



色盲の方は意外に身近に("みぢか"だよ)多いがそういう方を除いてではどうかと言ったとき全員が全く完全に同じように色が見えてるとは断言しにくい気がする



青と言えば空、赤と言えば林檎などの決まった「イメージ」はあるが視覚を通した時に映る色に差異はないのだろうか



(クオリアという言葉がある
それに関連してマリーの部屋や哲学的ゾンビなど興味深い考察があるので一度調べてみてはどうだろうか)



色の境目なども言葉では説明しにくいだろう



絵の具で赤と青で紫、白と黒で灰色などで混ぜると色が変わる



そこでどちらかに少し偏らせる、少量の第3色目の色となる絵の具を加える
おそらくこれだけですでに別の色である



ではその色は「何色」なのだろうか
どう私たちの目に映るのだろうか


人間の感覚(普通に生活する上での五感、無意識な行為)に大きく影響する視覚



まだまだ謎はありそうである



自分たちの体なのに他者と比べると謎が深まるばかりである
不死とはどういうことなのだろうか



とりあえず病気にはならなそうである



外傷はどうなるのだろうか



例えばパンピーが腕を切断せざるを得ないほどの事故に不死マンがあったとする



無傷なのだろうか

傷は負うがピッコロのように再生可能なのだろうか

腕はなくなってしまうが命には確実に別状はないのだろうか



というかそんな小さな次元ではなく地球、そうTHE EARTHがなくなったらどうなるのだろうか



フリーザのように宇宙空間でも生きられるのだろうか



そしてこの時点でドラゴンボールのキャラはみんな物凄いことに気付く



逆側からアプローチしてみよう



なんで寿命はあるのだろうか



終わりを作ることによって命は大切だと認識させるためかもしれない



そしてもし寿命がないのなら人間は何を目的に生きるのだろうか



寿命によって時間は有限になる



その制限によって人間は自分の生きた証を残そうとするのではないか



限りある人生だからこそ何か企ててその実現に向けて努力しようとするのではないか



それが生きる価値ではないか



もし不死ならまわりの人間、家族、恋人、みんなが死んで行くのを半永久的(人類が不死マン一人を残し、絶滅する可能性をふまえた上での半永久的である)見続けることになる



食事も必要ない
睡眠も必要ない
ストレスをいくら感じても健康には影響ない



すこし辛すぎるだろう
これだけ辛い未来もそうないだろう



不死なんてやはり必要ない



話が逸れすぎている気がするし、何も答えはでていないが



どうして不死を望むだろうか(いや、望まない)


絶対ということはこの世にない


よく聞くあれだ


この言葉は本当に考えさせられる


断言しているのだから絶対は絶対にないということが言いたいんだと思われる


この場合絶対ないということが絶対にあるのだから絶対はありえることになる


不可能はこの世にある


今東京にいる人間が2秒でブラジルに行くのは完全に不可能だろう


ドラえもんの世界を見てみよう
昔のドラえもんならお馴染みのシーンだ


のび太がジャイアンとスネ夫のムチャ振りに対してムキになり、絶対やってやると豪語し逆立ちで町内を一周するだの鼻からスパゲティを食べるだののムダにハードルの高い罰ゲームを自らに課してドラえもんに頼るというあの腹ただしいシーンだ


あれはのび太にドラえもんという心強い味方がいるから絶対と宣言できる芸当である


ドラえもんのいないこの世界、不可能なんてことはザラにある


このことは確実に断言できる


やはり絶対はあるのだ


そもそもこの言葉


世の中にはあらゆることが起こる可能性があるから何事も決めつけることはできないといったものがもとの意味だろう


そんなものは綺麗事である


できないものは絶対にできないのだ


絶対