私たちは暴力によって生まれた。

本当は生まれたくなかった、というか生について理解していないところから産み落とされた。

I  was born

私たちは生むというある種の暴力を受けて、その意味を見出していく。
最近の風潮として、強制的に勉強させられることは悪いことだというのがある。子供にはその子がやりたいようにやらせるべきであるというように。
しかしそれは非常に矛盾を抱えていると思う。
生むという強制的な行動をしているにも関わらず、強制的に勉強させることは躊躇うのだから。勿論、大人になってからは別である。
しかし、幼い頃から、その子がやりたいようにやらせるということはそれこそ無責任なのではないか。
僕の通っている中学校には読書課題というのがある。それは最初はおかしいと思っていた。
なぜなら、読書は主体的な行為であって人様に強要されることではないからである。
しかし気づいた。
その強要すらされない人間は本の面白さに気づけるチャンスを失っているのではないかと。
勉強させられるというのはおかしいだろうか。
子供というのは判断能力がない。勉強がもたらす利益など考えるすべもない。
そのような状態で勉強させられる。
勉強する意味が分からないまま、勉強する。
ほとんどの人間がそうだろう。
現在の風潮では批判されることなのだろうが、僕はいいことだと思う。
なぜなら勉強がもたらす利益というものは後天的だからである。大人になって難しいことが理解できるようになった、込み入った話題に参加できるようになった、そういったことで勉強の良さに気づくものなのであって、それは幼いころからは予想できないものなのだ。
子供のやりたいようにやらせるべきであるというのは子供が知性を持っていることを前提にしているが、実際のところ、子供はそのような知性は持っていない。
目の前の利益に飛びつくに決まっている。
私たちはある1種の暴力を受けて育ってきた。
しかしそれでいいのだ、なぜなら私たちの理解には限界があるのだから。
だから何かに全力で打ち込むというのが大事ではないかと思う。
部活で努力した経験、ネットに打ち込んだ経験、それがあとになって想像し得なかったところで真価を発揮するかもしれない。
 スティーブジョブズのスピーチで深く印象に残っている話で、点と点を繋げるというのがある、スティーブジョブズは興味のない必修科目を受けるのをやめて、面白そうなカリグラフィーの授業をとっていた。
しかしそれがマッキントッシュのフォントのアイデアに活かされた。
授業を受けている間、それがそのような形で活かされるなんて考えられただろうか。
経験は後から意味が作られると思う。