昔から「勉強のやり方が分からない。」という話はよく出ていた。
かつては、話しているうちに「勉強をやりたくないだけ」に落ち着くことが多かったが、最近は本当に分からないと思われるケースが増えた。
え?教科書を読めばいいんですか?
マーカーって何ですか?
これを解いたらいいですか?
ノートに書き留めるってどうやるんですか?
という具合い。
これを覚えようね→はーい。
次回確認すると、何も覚えていない。
これは「覚える」がどういうことなのかを知らないから起こる。
たとえば「全部正解しないと帰れません。」をやる。
そこで初めて「覚える」をやり出す。
それでもどうやっていいのか分からないので、何度も書いて、空で言えるか確認して…のように「所作」をおしえてようやくコトが動き出す。
勉強の多くは知識を蓄えることだ。
知っていることを増やす。
しかし問題はそれよりもずっと以前のこと、そのためにどうすべきかを指導しなければならない。
思考力の低下は、勉強をする云々よりもずっと低いところで起こっている。
手取り足取り、所作を指導して、初めて勉強がはじまるのだ。
ザンネンながら世の中では、それを「テストのため」という動機づけでしかやってこなかった。
しかし代わりになるものは未だにない。
そのテストに対する危機感が極限まで薄まると、すべきことのアイデアは出てこない。
大事なところは、「忘れたくないから」マーカーを引くなり、メモしておくなり、何らかの「記録」をする。
忘れたくない意識が働かないので、すべきことが思いつかないのだ。
彼らにとって授業は「参加するもの」であり、その場で楽しむことが目的になる。授業を受けることが勉強なのだ。身につくとかそういうことは考えない。意味を分かろうとしないので、話は面白いところ以外はすべて聞き流す。それにも飽きてくれば隣の人にチョッカイを出して遊び始める。その場を楽しむことが目的なので、話がつまらなければ当然そうなる。それは彼らが不真面目だからではない。やっていることの意味、目的を知らないのだ。
ちなみに、彼らが、どうして勉強しないといけないのか?を愚痴る場面は多いが、それを説明しようとすると1分も経たずに隣の人と遊び始める。
人の話を聞けない上に、この手の話を理解するには現時点の学力が足りないからだ。
仕方がないから、テストで〇〇点を取ろう!になるのだが笑、それも「本番をがんばろう」に聞こえてしまい、いまどうするかの考え方にならない。
かつてなら教えるまでもないことを教えなければならない。そういう時代になったのだ。
精神論はまったく通用しない。
頭ではなく手に直接働きかけることが重要だ。