明治という激流の中で「何者にもなれず」に漂っている一人の男と、彼を取り巻く人々のお話でした。


【要約】文明開化の轟音と、その影に溜まる「泥」の物語。舞台は明治初期の東京・根津。かつては誇り高き武士だった主人公・定九郎は、維新によって身分を失い、今は遊郭の「通い番(雑用係)」として、その日暮らしを続けています。


世の中は「文明開化」の号令とともに、急速に姿を変えていきます。陸蒸気と呼ばれた蒸気機関車が黒い煙を上げて走り出し、不平士族による西南戦争の足音が聞こえてくる。昨日までの常識がゴミのように捨てられ、新しい価値観が津波のように押し寄せる時代。


そんな中、定九郎は新しい時代に馴染む努力もせず、かといって過去を完全に捨てることもできず、ただぼんやりと「世の中が変わってしまったこと」を恨みながら、掃き溜めのような路地裏で立ち止まっています。


物語は、彼を取り巻く遊女たちや、一癖も二癖もある男たちの群像劇を通して、「激流の中で、どう足をついて生きるか」さ「時代に取り残されることの切なさ」を描いていきます。


湧き出す定九郎への「イライラ」

読み進めるうちに、私は主人公の定九郎に対して、猛烈な「もどかしさ」を感じました。正直に言えば「ちょっと、いい加減にしなさいよ!」と背中を叩きたくなるような苛立ちです。


なぜ、これほどまでに一人の架空の人物に感情を逆なでされるのか。その理由を深掘りしていくと、この物語が持つ「恐ろしいほどのリアルさ」が見えてきました。


1. 「プロの凄み」と「何者でもない甘え」


この物語の面白さは、定九郎と周囲の職人たちとの鮮やかな対比にあります。例えば、客の履物(下駄)を見ただけでその素性を見抜く龍造。彼はたとえ人から嫌われようとも、自分の職分において圧倒的な技術と「自負」を持っています。泥の中にいても、自分の足元をしっかり見つめて生きる、静かな覚悟があるのです。


対する定九郎は、かつての「武士」というプライドを捨てきれず、かといって新しい時代の技術を身につける勇気もありません。

「手に職を持つ者の潔さ」と「何者でもない者の甘え」。この対比が、定九郎の「漂っている感」をこれでもかと浮き彫りにします。


2. 凛として立つ遊女たちとの精神的な差


また、過酷な運命に身を置きながらも、凛として「今」を生きる遊女たちの姿にも胸を打たれます。

彼女たちは、逃げ場のない場所で命を削りながら、自分の役割を全うしようとしている。五体満足で、選ぼうと思えば道があるはずの定九郎が「時代のせいだ」「運が悪い」と過去の残像を追いかけて停滞している姿は、非常に現代的な「モラトリアム」のようにも見えます。


AIの出現」に揺れる現代との重なり


かつて武士たちが蒸気機関車の音に驚き、刀を奪われてアイデンティティを失ったように、現代の私たちもまた、AIの出現という巨大な変革の波にさらされています。

「自分の仕事がなくなるのではないか」「もうこれまでのスキルは通用しないのか」と不安に駆られ、定九郎のように「昔は良かった」と停滞したくなる誘惑は、誰の心にも潜んでいるはず。


私が彼に感じたイライラは「自分の中にある見たくない部分」を突きつけられたことへの防衛本能なのかもしれません。「世の中が悪い」「環境のせいだ」と不満を募らせるだけで、自分は何もせずに立ち止まっていないだろうか?定九郎は、時代の変わり目に振り落とされそうになっている人々の象徴のようにも思えるのです。


読み終えて

定九郎は決して「悪人」ではありません。不器用で、どこか抜けたところのある彼を囲む人たちの交流には、温かな人間味が溢れています。「情けないけれど、これもまた人間なんだ」という全肯定の眼差しに少し救われた気持ちになります。


定九郎のように「漂う砂」にならないためには、どんなに小さなことでもいいから、自分の足で一歩踏み出すしかありません。まずは、新しい時代の風を「怖がったり」「恨む」のではなく、「思い切って吸い込んでみる」ことから始めよう。そう思わせてくれる一冊でした。