バブル期に新聞社の写真部に入り、社会の流れに抵抗を覚えてアジアの旅へ。その成果を写文集『アジアン・ジャパニーズ』にまとめて大きな注目を浴びた写真家の一九九〇年代末から現在までの活動をたどりつつ、写真とは何かを考えていく。
 カメラとの付き合い方、人物を撮るのに相手をなごませる秘訣(ひけつ)、撮影後のセレクトのプロセスなど、すぐに活用できるアドバイスも多いが、次のような問いかけが本書をユニークなものにしている。「どうしたら写真を撮る者になれるのか。それは、写真よりも好きなものを持つことができるかどうか――。これに尽きると思う」
 写真は二の次のように聞こえるが、重要な指摘である。例えば、テレビが好きという人がいたとしよう。その人が惹(ひ)かれるのはテレビに映るものであり、空の受像機自体でないことは容易に想像がつく。
 同じようにカメラが好きなだけでは空っぽなのだ。好きなこと、夢中になれるものがあって、それをより深く知りたいとき、撮るという行為が威力を発揮する。ゆえに、写真以外の視点を持っていることは必然だ。視野の広がりと物の見方こそが、写真を撮る者の生命線なのである。 
 本書のもうひとつの特徴は、著者の言葉への態度である。「私の場合、作品を完成させる過程で必ずキーワードとなる言葉が必要だ。それがないまま進めることがなぜかどうしてもできない」
 写真家はよく、言葉にならないから写真を撮るのだ、と主張する。これは半分当たりで、半分外れている。物事を感じとるには言葉は要らないとしても、撮れたものについて考え、作品化するには言葉のプロセスが不可欠だからだ。指で押せば撮れてしまう安易さに留(とど)まらないところに、写真のおもしろさと複雑さが潜んでいるのだ。
 最後に彼は本書のタイトルである「写真はわからない」という言葉に行き着く。正解がないから続けられるし、終わりがない。「写真は人生と似ている」というフレーズに深くうなずくゆえんである。
【大竹昭子(作家)】



『覚書』

新鮮であること

多くの人にとって未知のイメージであること(インパクトがあると言いかえてもいい)

新鮮な価値観の提示であること


診察 二つの基準

新鮮であるか

新たな価値観の提示になっているか


さらにαとして、「自分には撮れないとおもわせてくれるもの」か加わる。


「新たな価値観の提示になっているか」はオリジナリティを指す。作品が何かを宣言しているかどうかと言い換えもいい。


「既成の価値観」の上に成立している作品とは、俗にいう、カレンダー的、絵ハガキ写真などのことだ。例、朝焼けの富士山、既視感がある。


仮に湖の手前の岩の上にミカンが縦に三つ積まれていたらどうだろうか。ピントは積まれたミカンに合っていて、富士山には合っていない。観る側はどんな感情を抱くだろうか。少なくとも私は穏やかではいられなくなる。観たことがないならだ。だから混乱する。なぜ、こんな写真を撮ろうとしたのかと、作者の意図するものを必死で探そうとするだろう。つまり、ここには新鮮さがあり、オリジナリティがある。そして、自分にこんな発想はなかった。こんな写真は撮れないことに気づく。先に挙げた三つの条件に十分日当てはまる。


多くの人が抱いている見方を違う次元にさらってしまうもので、新たな価値観の提示がある。


裏を返せば、そのぶん、人はこの作品からさまざまなことを考えさせられれ、想像させられているともいえる。それらを強制させられているといったら言い過ぎだろうか。とにかく、疑問は大切だ。さきほどの富士山の写真をみたとき、おそらく多くの人の疑問は浮かばないだろう。


つまりそのときの自分の状況、心境を十分に投影している。つまり「鏡」といえる。


ただし、この一枚をなんの情報もなくポンと見せただけでは、ほぼ何も伝わらないだろう。こうして文章によって説明したから、ある程度伝わったにすぎない。このことが、前述した「鏡」の写真は伝わりにくいという理由だ。



ごく個人的なこと、特殊な事情の中で撮られた写真は、いつでも撮影者の意図した通り閃く伝わるわけではないし、観る側に委ねられる部分が大きくなる。一方で、意図する内容が簡単にわからないからこそ、その写真の魅力が増すということもある。ただ、特殊な状況で撮られたものであるほど、写真は強くなり、さらに不思議なことに普遍的な意味合いが増すとも私は考える。無駄なものが削ぎ落とされ、単純化されるからだろうか。


ここで「写真を読む」という行為が重要になる。少ない情報の中柄想像を働かせる必要がある。作者の経歴、年齢、タイトル、仮に撮影地などがわかれば、作者との関係などを想像しなが写真を観ることができる。つまり、想像をふくらませ写真を「読んで」みる。そうすることで、写真と鑑賞者との間に「摩擦熱」のようなものが生まれる。無言の問い、会話といってもいいかもしれない。それが生まれたとき、写真が撮った者のものではなくなり、鑑賞者のものになると私は考える。


どんな写真が摩擦熱や会話

うむのか。理想は撮影者が「鏡」として撮った写真が観る者にも「鏡」として見える写真だ。つまり見知らぬ誰かが撮った写真が、まるで自分のことのように感じられるからだ。極端なことを言えば、自分が撮りたかった写真のように感じられるときではないだろうか。