日本のログハウス業界では、正倉院が日本最古のログハウスであるというのが、定説になっている。しかし、2月にテレビに出るにあたって、制作会社から「どうも日本最古ではなさそうだ」という連絡があり、調査をしてみた。
まずは、正倉院の概要から書いていこう。
高床式校倉構法で造られた正倉院は、東北に長く建っている。間口33m14㎝、奥行き9m39㎝、高さ13m72㎝という巨大な建物である。床下は自然石の上に立つ高さ約2.5mの40本の束柱が建物を支えている。束柱も太さ約64㎝という巨大な材である。
大きくいって3つの倉が組み合わさった構造になっている。北倉と南倉は二等辺三角形(厳密にいうと、水平に積めるように上下の角を落としている)の校木(ログ)を積んだ校倉構法であるが、中倉は板を落とし込んでいる板倉構造になっている。校木の1本の断面は30㎝もある太い材だ。
当時、校倉づくりは珍しい存在ではなく、多くの神社には宝物を保存する校倉づくりの倉が設けられており、平城京跡からも校倉構法で使っていた校木が出土している。
古くからシルクロードを通って日本に運ばれてきたという宝物を1200年以上守ってきた倉ということがよく知られている。よく、校倉づくりの校木が外気の湿度の変化に応じて、収縮・乾燥を繰り返していたから内部の宝物を守ったといわれてきていた。
これは、江戸時代の国学者・考証学者の藤貞幹(とうていかん)が提唱したもので、明治時代の建築史家が支持したことから、広まっていった。しかし、現在では宝物を大切に守ってくれたのは、建物本体ではなく、収納していた唐櫃であったといわれている。現在の精巧に造られた、気密性に富んだログハウスなら、十分に吸排湿効果があることは、十分に知られている。
現在、宝物は正倉院正倉ではなく、1952年(昭和27年)にできた鉄筋コンクリート造の東宝庫と1962年(昭和37年)の西宝庫に収められている。
さて、いよいよ本題の創建時期だが、光明皇后が夫である聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8年)前後とみるのが通説になっている。
それ以上に、古いログハウスがあった。唐招提寺の経蔵である。天武天皇の息子である新田部親王(にいたべしんのう)が、邸宅内の土地に米倉として経蔵を建てていた。そして、新田部親王が735年に薨去(こうきょ)し、その邸宅跡が鑑真に与えられて、鑑真が唐招提寺を創建。創建にあたり、経蔵も改造した。
経蔵は、桁行三間(約5.4m)と×梁間三間(約5.4m)と、ログハウスと呼ぶには、ログキャビンと呼んだ方がいいような小さな建物だけに、正倉院を最古のログハウスと呼んでもいいかもしれないが、意外や日本のログの歴史は深かった。

