正倉院や唐招提寺の経蔵などの校倉構法は、現代のログハウス構法とよく似ている。違っているのは、正倉院などの校倉は二等辺三角形のログを使っているが、現在は、丸太や角材など多種の形状があることだ。角材は、形状もさまざまなものが登場している。しかし、日本の建築は、古来、柱と梁を主体構造にした軸組構法を基本にしており、校倉構法は、倉しか建てられていない。なぜ、日本で校倉構法が生まれたのか常々疑問に思っていた。

 

 同じような疑問を持ったのが、考古学者の石野博信氏である。著書である『考古学者石野博信のアジア民族建築見てある記』で正倉院のルーツについて推察している。石野氏は本の中で「調査対象は紀元前六~前三世紀といわれているスキタイ系クルガン(古墳)群で、棺は木槨(もっかく)に収められている木材部もよく保存されており、地下の井桁組み建築(校倉造り)を目にしてこれぞ正倉院建築のルーツと感じた」と述べている。

 

 木槨とは、棺や副葬品を納めるための木の外箱のことである。この木槨が四方を丸太で組んだログハウス構法で造られていた。トルコにあるアナトリア文明博物館でも同様の木槨を見ることができる。木槨のまわりは、石組みで囲っていた。

 

 スキタイとは、黒海北側からカスピ海北岸の草原地帯で活動していたイラン系民族。その活動時期は、紀元前8世紀~前3世紀とか、紀元前9世紀~前4世紀とか、いろいろな説があるが、スキタイは西アジアのヒッタイトなどから鉄器の製造技術を学び、それを東方に伝えたといわれる。首長を埋葬したクルガン(墳墓)からは、大量の鉄製品、金製品が発見され、ロシアのエルミタージュ美術館などに収蔵されている。

 

クルガンから発掘された金製品(エルミタージュ美術館)

 

 さらに石野氏は、ロシアのアルタイ共和国(アジアの中央に位置するロシア連邦内の自治共和国)の旧石器時代遺跡では、復元されたアルタイハウスを見学。これは6角形に組まれたまさしくログハウスである。紀元前3世紀の中国雲南省の石塞山(せきせいざん)遺跡の青銅器にも校倉が描かれているのを発見した。石塞山文化とスキタイ系文化とは関係があったことは、知られている。ここにもつながりがあったのだろうか。また、石野氏は韓国のウッルン(鬱陵)島に残されていたログハウスを見学している。

 

 シルクロードよりも古い文明の道に「アイアンロード」というのがある。西アジアから日本列島まで、各地で「鉄」の製造技術を伝えた道であり、シルクロードよりも古い。その技術は、スキタイから東方で活躍した同じ遊牧民族である匈奴(きょうど)や漢に渡り、それが最終的には弥生時代の日本へと伝わってきた。

 

NHKスペシャル『アイアンロード~知られざる古代文明の道~』より

 

 そこで、私には新しい仮説ができあがっていた。正倉院に校倉づくりの技術を伝えた道とアイアンロードは、奇妙に重なっているのである。もしかしたら、スキタイのログハウスの技術が、アイアンロードを通って日本に伝えられたのかもしれない。