1932年5月15日海軍の青年将校たちは時の首相犬養毅らを暗殺。

この後、斎藤実(海軍)、岡田啓介(海軍)、このとき陸軍将校による二・二六事件(1936年)が勃発。

廣田弘毅(官僚)時代に軍部大臣現役武官制が復活。

これにより、事実上軍部の支持が得られない内閣は成り立たなくなる。

その結果が林銑十郎(陸軍)、近衛文麿(華族)、平沼騏一郎(官僚)、阿部信行(陸軍)、米内光政(海軍) 、近衛文麿、東條英機(陸軍)…です。

(参考 Wikipedia 内閣総理大臣の一覧


歴史に疎い私などは、五・一五、二・二六事件などにより軍部が台頭していったことが戦争へ突入する原因となり、軍こそ悪であるというイメージがありますが、当時の様子はかなり異なっているようです。

むしろ、世論はクーデターの首謀者たちを支持し、無罪の嘆願書なども提出されていたとあります。


当時の世論を作り上げていたのは何だったのでしょうか?

確かに政治腐敗により国民が政党政治に辟易していたという話は聞いたことがありますが、もしかしたらそれさえ誰かの意志による世論操作だったのかもしれません


政党不信の原因の一つである五私鉄疑獄事件(1929年)では、その疑獄という名前からもわかるとおり、汚職の有無は未だ藪の中です。

実際に第一審の東京地裁判決は事件当時の鉄道大臣小川平吉に加え私鉄関係者全員の無罪が出ています。

しかし世論に動かされた裁判所は控訴審で小川平吉など8名に有罪判決を下し、それにより小川は政治生命を断たれることになります。

当時の政治情勢は立憲政友会と立憲民政党の二大政党時代であり、そもそも小川に対して直接金銭の授受が行われていないことから対立する立憲民政党の画策とも言われております。

しかし当時の情勢を考えると政党とは別の力が働いたという予測もできないわけではありません。

(以上参考 Wikipedia 五私鉄疑獄事件  小川平吉


当時の法律が如何なるものかはわかりませんが、事件の概要を見ると現在であれば無罪判決が妥当であるという印象です。


二大政党の対立の中マスコミの世論操作大物政治家小川を失脚させ、政治不信をあおりました

その結果、軍が支持を広げていきます。

歴史はこの後満洲事変(1931年)、五・一五事件、国際連盟脱退(1933年)、二・二六事件を経て日中戦争(1937年)へ。

疑獄事件から80年。

はたして、後年の歴史家たちは2009年3月3日と2009年5月11日をどのように評価するのでしょうか?


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小沢一郎代表辞任に関するブログは検察やマスコミに対する怒りがおさまってから書くかもしれません。