『山頭火について』 | 想いの道 ~会長の独り言~

『山頭火について』

       さくらさくら さくさくら ちるさくら    山頭火(さんとうか) 


 表題の句は、明治15年山口県防府市に生まれ、昭和15年に没した「種田 山頭火」の作です。

 防府で父親と造り酒屋を経営していたが倒産。一家は離散し彼は妻子を連れて熊本へ落ち延びます。その後文筆で身を立てる希望を持ち、単身で上京したがうまく行きません。その間妻とも離婚しついには出家得度に至る人生を選んでゆきます。大正15年からは、今日よく知られている、墨染めの衣に鉄鉢をささげ、乞食を行じながら多くの名句を詠んでゆきます。


 旅のはじめの第一句が「大正15年4月、解くすべもない惑いを背負うて、行乞流転の旅に出た。」と前書きを付けた次の俳句です。

    「分け入っても分け入っても青い山」  大正15年4月  高千穂路

 俳句と言えば 「5、7、5」という定型がすぐ頭に浮かんできますが、彼はその行乞流転の旅の中で生活即俳句、季語や形にこだわらない魂に響く自由律俳句を作りつづけました。

    「うしろすがたのしぐれてゆくか」  昭和6年12月31日  福岡 飯塚

    「鉄鉢の中へも霰(あられ)」  昭和7年1月8日  福岡 神湊

    「笠へぽつとり椿だった」  昭和7年4月4日  長崎 御厨

 そして、冒頭の句、「さくらさくら さくさくら ちるさくら」はやはり昭和7年4月15日に西公園での作である。

 どの俳句もリズムがあって、朗唱するのによいものばかりです。どれも哀切な響きがあり、涙をそそる句も少なくありません。少年時代に母親を自殺でなくしますが、その心の痛手を癒すために詠んだ句には、感銘深いものがあります。母の47回忌に詠んだ

    「うどん供えて 母よ わたくしもいただきまする」   昭和13年3月6日 其中庵

 そして49回忌「たんぽぽ散るや しきりにおもふ 母の死のこと」  昭和15年3月

この年の10月に懐かしい母のもとへ旅立っています。

 うまれ故郷の防府に彼の生家から小学校までの800メートルの通学路が、今、「山頭火の小道」として保存されています。防府天満宮のすぐ近く。この道は旧山陽道に平行して東西に走る道幅3メートルもない小道だが、大商屋、酒造所から参勤交代の本陣などが、軒を連ね、現在も生活道として使われているが、タイムスリップしたような明治、大正の情緒を残しており、家並が訪れた人々をなごませています。

 この稿の最後に私の好きな句をいくつか挙げて終わります。

   「まっすぐな道でさみしい」  昭和4年  漂白の旅の途次

   「生きていることがうれしい水をくむ」  昭和9年12月14日  其中庵

   「こんなにうまい水があふれている」  昭和5年10月8日  宮崎 榎原

   「すべてころんで山がひっそり」  昭和5年  漂白行脚の途次

   「こころつかれて山が海がうつくしすぎる」  昭和5年10月1日  宮崎 伊比井

   「さて、どちらへ行こう風がふく」  昭和9年2月22日  北九州  小倉

 辞世の句

    「もりもりもりあがる雲へ歩む」  昭和15年9月1日  松山