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2010年4月3日に開催された第82回選抜高校野球大会は、興南高校が延長12回、10―5で日大三高校を下し、春夏通じて初優勝を果たした。
テレビや新聞の報道では、興南高校の島袋洋奨投手の「198球の熱投で完投」とか、「沖縄県勢の優勝は第80回大会の沖縄尚学高校以来3度目」などの見出し記事が躍っている。
また、負けはしたが、日大三高校の山崎福也投手の力投もすばらしかった。
山崎選手に関するエピソードは、3つある。
ひとつは「2年前に脳腫瘍を患い、練習を再開したのは去年の秋から」だったこと。
ふたつ目は「兄の福之氏が2年前の聖望学園高校の選手時代に決勝で同じく沖縄県勢の優勝した沖縄尚学に敗れた」こと。
3つ目は「父の章弘氏はかつて巨人でプレーした元プロ野球選手」であること。
その他にもエピソードの多い第82回センバツの決勝戦であったが、本コラムでは「興南高校の我喜屋優監督」を取り上げてみたい。
我喜屋監督が母校興南高校の監督に就任したのは2007年の4月。
それまでの我喜屋監督の経歴は、興南高校が甲子園に初出場した1968年夏のキャプテンでその大会ではベスト4になり「沖縄旋風」を起こしている。
卒業後は、ノンプロ(社会人野球)の大昭和製紙北海道でプレーし、1974年には北海道勢初の都市対抗野球での優勝を果たしている。
そして、現役を引退した後は、大昭和製紙北海道の監督となり、大昭和製紙が日本製紙と合併し、その後「野球部が廃部」となった後も、北海道の白老町に残り、大昭和製紙の野球部活動を引き継いだ社会人チームの監督を務めたのだ。
北海道でのエピソードは、現在楽天で活躍している田中将大投手を擁して夏の甲子園を2連覇した駒大苫小牧高校の当時監督だった香田監督にアドバイスをしたことで知られている。
香田監督は佐賀商から駒澤大学に進んだ経歴なので、駒大苫小牧高校に就任した時は「初の雪国生活」だった。
そこで、同じく、かつて「初雪国」を経験し、苦労した我喜屋監督が自らの体験を香田監督に伝授したのだ。
興南高校の監督に就任してからの我喜屋監督のエピソードは、
◇室内練習場の確保をせずに、長靴をはいて雨天でも練習
◇時間厳守(バスの発車時刻に遅れた選手を置いていく)
などがある。
この考えは、我喜屋監督曰く「沖縄の子どもは抵抗力がない。社会に出た後のことも考えて練習しないといけない」という考えに基づいている。
これは「沖縄出身で沖縄以外の地で豊富な経験を積んだ我喜屋監督」だからできたことだと思う。
内地出身で沖縄の高校の監督に招へいされた実績ある人が「沖縄の子どもは抵抗力がない」「時間厳守」を練習方針に打ち出したら、生徒だけでなく、父兄の反発を招いたからかもしれない。
私は、我喜屋監督について、こうしたエピソードと「勝利者インタビューで受け答えする姿」しか知らない。
しかし、これらを通じて「とても誠実で、まじめ、信念のある方」ではないかと思う。
例えば、準決勝の大垣日大戦に勝利した後のインタビューで、アナウンサーに「日大三高に対してはどんな戦略で挑みますか?」と質問されて「ここまで来るとは考えていなかったのでわからないですね。これから(宿舎に)帰ってから考えます」と答えていた。
普通は、相手の分析ができていなくても「悔いのないよう一生懸命やるだけです」とか「選手の力を信じて頑張ります」など無難な回答をするのであるが、我喜屋監督は性格的に「誠実(悪く言えばくそまじめに)」に回答したのだろう。
沖縄県の高校野球レベルは高く、2年前のセンバツの優勝校であった沖縄尚学は夏は県予選で敗れている。
興南高校の今後の成長と戦いに注目していきたい。
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