新千歳空港から飛び立った飛行機が到着予定時刻になっても羽田空港に到着しない。
どうしたのかな?と思っていると機内放送が流れ、「羽田空港の滑走路の点検(点検理由はよく説明されなかった)により一時空港が閉鎖されており上空待機を命じられている」旨の案内があった。

最終に近い便だったので便数のピークは過ぎているはずだが、相当数の飛行機が上空待機しているようで、航空管制からの指示が出ても最低そこから25分は掛るという。
安全を考えれば仕方のない話であるが、「環境」的に考えれば「かなりの燃料の無駄」である。
また、無事羽田空港に着陸できればよいが、新千歳空港に逆戻りすることになれば、「無駄な燃料」はさらに増える。
羽田に下りたとしても、乗客によっては電車やバスがないからタクシーや自宅に電話して車を出してもらうと、さらに2次的な資源の無駄が生じる。
「環境」を考えるなら、飛行機の性能向上や小型機の導入など省エネよりも「無駄な燃料を使用する原因対策をした方がいいんだよなぁ」・・・ということを考えていたら、約35分遅れで羽田空港に着陸した。

こういった「燃料の無駄」を無くすなら、天候や空港施設の安全確認による上空待機や引き返しなど「無駄な燃料の利用リスク」が生じにくい鉄道を利用したほうが「環境にはよい」だろうけれど、便利でものごとが高速化したな現代社会では現実的ではない。

よく「環境」、特に「循環型社会」を考える時に「江戸時代」を持ち出す人がいるが、現実的でないと思う。
もちろん、考え方のエッセンスは大事であるが、結論からいえば、文明が進み、「便利な世の中」を知ってしまったら、世の中の生活水準やそれを業務活動とする組織のサービスレベルや同業他社との競争との兼ね合いになるから、極端に戻せるはずもなく、昔と比較しても殆ど意味がない。
要は「文明の発展とどう折り合いをつけて環境に関連する無駄を排除していくか」という観点でしか議論の余地はないのだ。

ちなみに、廃棄物(ゴミの種類)で江戸時代と現代を比べてみたい。
1)紙類
江戸→古物商での引取ルートが形成されており、ごみとしての排出はほとんどない
現代→出版物の増加,OA化の進展に伴い大量に排出される
2)生ゴミ
江戸→多くは近隣の農家に引き取られていき、肥料として使用
現代→家庭からの排出に加え、外食産業及びスーパーなど小売業により、事業系生ごみが大量に増加
3)プラスチック類
江戸→存在せず
現代→包装容器を中心に大量に排出されている
4)金属類
江戸→古物商での引取ルートが形成されており、ごみとしての排出はほとんどない
現代→スチール缶、アルミ缶等を中心に大量に排出される
5)陶磁器・ガラス類
江戸→壊れた陶磁器類等は修理が行われていた。また一般にガラス器はほとんど存在せず
現代→デザインが重視され、再使用可能なびんの比率が下がり、ほとんどがごみとして排出される
6)粗大ごみ類
江戸→火事の後の残土以外はほとんど排出されない
現代→家電製品をはじめとして多くの製品が粗大ごみとして排出される
7)その他
江戸→かまどから出る灰は主に近隣の農家で買われ、肥料として使用された
現代→乾電池や蛍光灯などの有害物質含有製品が大量に廃棄される

このようにゴミから見ていくと、使用段階のインプットを江戸時代に戻すことは、たとえば、「乾電池や蛍光灯など有害なゴミをなくしたい」と思ってもいまさら現代では「炭やランプによる生活」は一般的には無理である。
つまり、私たちが考える身近な環境問題の基本は「その時代の現代社会とどのように折り合いをつけて無駄を削減していくか」「やり直し作業など無駄をどのように削減していくか」の観点でしか取り組むことはできないのである。
仮に懐古主義になるのだとしたら、「経済や生活水準までもを江戸時代に戻しましょう」という話になるが、それは現代人の殆どの人が望まないことだろう。
(※ 自分を変える“気づき”ロジカルシンキングのススメ メルマガ95号より)

【よかったらクリックお願いします♪】
ブログランキング・にほんブログ村へ
ブログランキングranQ
企業家ブログhttp://www.kigyoukablog.jp/ranki.cgi?id=35