このことわざの意味は「弘法大師(真言宗の開祖である空海)は筆のよしあしを問題にしない。真に一芸に長じた人は、どんな道具を使ってもりっぱな仕事をする」というたとえである。
つまり、広く解釈すると「やることなすこと、秀でた人は人はどんな道具を使っても上手だ」というふうな意味になるのでしょう。
私は、幼少時には、さらに勝手に理解を加えて「道具選びをうんぬん議論する前に成長したり、実力を鍛えるべき」と捉えました。
なんでそう捉えていたかというと、決して親のせいにするつもりはないですが、たとえば身体の成長が著しい子供のころは、親がサイズの合わない靴や洋服、自転車や勉強机を買ってくれました。
つまり、「カラダにサイズを合わせる」のではなく「サイズにカラダを合わせる」というように数年後の成長を見越したサイズのものを買っていたわけです。
たとえば、イマドキの子はそんな経験はあまりないでしょうけれど、靴はワンサイズ上の靴を買って、足先に綿をつめて履いていたこともありました。
また、自転車も三輪車の次は小学生が乗るような大きめの自転車で、バンビやスヌーピー、仮面ライダーといったキャラクターの絵が入った幼児用の補助車の付いた自転車は買ってもらえませんでした。
しかし、「親におねだりするのは罪悪」と認識していた私は、同年代の友達が持っているものがない一抹の寂しさを感じつつも特段、文句を言ったことはありませんでした。
そのせいか、少年野球をするにでも、学生時代に真剣に取り組んだボウガン射撃にしても「道具はそこそこのものがとりあえずあればいい、それよりも練習して技術を鍛えよう」という概念が当初は根底にはあった気がします。
ただ、競技スポーツに真剣に取り組んでいくうちに、「カラダに合わない道具を使っていてもうまくならないし、成績も上がらない」つまり「技術力を高め、成長するためには、カラダに合った道具を使って練習しなければうまくならない」ということが理解し、実感できるようになった。
しかし、いまでも「趣味の延長線上でスポーツをやる時」は技術も実力もないのに道具選びはテキトーなのかもしれません。
だから、先日のブログに書いたように、マラソン大会に出場すると足の指が内出血を起こすトラブルに見舞われてしまうのでしょう。
先日その話を、関東地方出身でスノーボードやスキーの指導員の資格を取るためにバイトをしながら北海道で暮らしている知人と話していたら、「素人こそ、自分の身体や脚力、手の長さ、足の長さ、体重などに合わせた靴やソール、板を履いてビンディングの位置などを調整しないとダメにです。弘法は筆を択ぶんですよ!」と言われてしまった。
ついでに「足の指先を見せてください」というから靴を脱いで見せたら「こんな爪の切り方では足を痛めるし指が変形しますよ。スポーツをやっていた割に無頓着ですね」と笑われてしまった。
つまり、スポーツをやるには深爪で、爪のサイドをカットしすぎなどだという。
それにしても、スポーツに関してはかなり、現状分析もせず、テキトーで精神論、根性論でやっているなぁ、と改めて気づいた。
ふだん、仕事では「クレームや不具合を分析して仕事の改善をしよう」というようなことを語っているのにね・・・(苦笑)
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