この大会が全国的に注目されていたのは、親子3代に渡る甲子園出場が掛かっていたからだ。
親子3代とは、(続柄は故斉藤一之氏から見て)
故斉藤一之氏
斉藤俊之氏(息子)
斉藤之将氏(孫)
である。
故斉藤一之氏は、30代以上の高校野球ファンなら誰でも知っている全国屈指の名将だ。
例に挙げると、
・甲子園春夏通算11回出場し23勝(10敗)
・1965年(S40)の夏準優勝(元ロッテの木樽正明投手を擁して)
・1974年(S49)の夏全国制覇(元中日の土屋正勝投手を擁して)
・1976年(S51)の夏ベスト8
(優勝した初出場の桜美林に敗退。元中日の宇野内野手、俊之氏(内野手)らがいた)
などの戦績を残し、パリーグのMVPも獲得したことのある木樽氏には「プロの練習より銚子商時代の方が高度だった。それだけ高いレベルの野球を目指していた」と言わしめた。
指導スタイルは、
・やみくもに数をこなすのではなく集中力を高める
・練習の意味を考えながら効率良い練習する
を信条としていた。
元々は中学教師であったが、中学の県大会で3度の優勝をした実績を変われ高校球界に抜擢され、通信教育で高校免許を取得した。
しかし、無類の酒好きで1988年に肝臓がんで亡くなっている。(享年60歳)
息子の斉藤俊之氏は、前述したように、1976年の夏の甲子園大会に当時2年生として出場している。
当時の銚子商業では、監督の息子ということによる周囲の風当たりは強く、「銚子商には8つのポジションしかない」と陰口を叩かれたそうだ。
しかし、県大会準決勝で、前年の甲子園優勝校習志野を相手に、2-2の延長10回、サヨナラ本塁打を放った。これは、陰口を叩く者すべてを黙らせる一発となり、帰宅後「ようやく銚子商の一員になれた」と語ったという。
甲子園出場は春8回、夏12回を誇る銚子商業であるが、一之監督退任後の銚子商業は元ロッテの澤井良輔内野手を擁した1995年の春夏の2回のみの出場で、銚子商業卒業後は大学を経て会社員をしていた息子の俊之氏の監督待望論が出て就任。2005年の夏に1度甲子園出場を果たしている。
孫の之将氏は外野手。
1990年生まれだから、誕生した時には、すでに一之氏は亡くなっていた。
銚子商業に入ってからの3年間は之将氏は、自宅でも俊之氏を「監督さん」と呼んで接した。
敗れた準々決勝では、「1点リードされた9回二死2、3塁」の場面で之将氏に打順が回る。
俊之氏は「3年間頑張ってきたからしっかり振ってきなさい」と試合では見せた事のないような笑顔で之将氏を送り出したという。
また之将氏は打席で天国の一之氏に「絶対甲子園に行くので力を下さい」とつぶやいたそうだ。
しかし、結果はセカンドゴロで最後のバッターとなりゲームセット。
親子3代甲子園出場の夢は潰えたが、それにしても、野球の神様は、ドラマティックにする、と思う。
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