直腸がんだったという。
1966年8月生まれだから現在41歳。
あまりにも早すぎる死だ。
石田さんは、木内幸男監督(現常総学院監督)率いる取手二高のエースとして、決勝戦で清原、桑田を擁するPL学園に延長戦を制して投げ勝った豪快なピッチングの姿は、30代以上の野球少年なら今でも記憶に新しい。
取手二高卒業後は、早稲田大学にスポーツ特待生として進学する。
しかし、早稲田の野球部の水に合わず、退部し、それと共に半年で中退して、社会人の日本石油に入社した。
1988年秋のドラフトで横浜大洋ホエールズから5位指名を受けてプロ野球入りするが、プロ野球では1年目に1勝(通算成績1勝0敗)するのみで、1994年に現役を引退し、バッティングピッチャーを球団職員として務めていた。
私の記憶では、取手二高卒業後の石田さんは輝きを失い、パッとしなかった記憶が強い。
進学した早稲田大野球部を辞めた要因のひとつに「取手二高時代のようにのびのび野球ができなかった」点を挙げる人は多いが私もそう思う。
取手二高の木内監督は、上下関係や礼儀作法を当時の体育会系運動部としては厳しくなかった。また、目指していた野球スタイルが、監督の采配を理解してついていけるような状況判断やサインプレーなど「野球の頭」を鍛えることに重点を置いていた。
つまり、上意下達式の「分からなくてもいいから従え!」という野球を石田さんはしてこなかったから、上下関係の厳しい早稲田大野球部に馴染めず退部へと至ったのだろう。
スポーツ選手には、勢いというものがある。
勢いがあるときの育成や起用のされ方でその後の活躍が全く違ってくる。
ちなみに、石田さんの6年間の現役生活で横浜の監督は、古葉、須藤、江尻、近藤監督と4人に及ぶ。
シロウト野球ファンとしては、早稲田に進学せずにプロ入りしていたらどうなったんだろう、と思う。
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