2008年4月28日に、2006年12月に発生した「会社員殺人事件」の判決が東京地裁より三橋歌織被告に「あまりに残酷な犯行」として「懲役15年(求刑は懲役20年)」が言い渡された。
個人的には、下された量刑が「重い、軽い」については正直わからない。
ただ、注目されるのは、公判では弁護側と検察側の鑑定医2人がともに「事件当時は心神喪失状態だった」と報告していたが、判決は歌織被告の完全責任能力を認めたことである。

刑事裁判における「精神鑑定」とはどのようなものか調べてみると。。。
1)被告の精神状態について精神科医が専門知識を基に診断する手続き
2)犯行時「精神の障害で物事の善悪が分からない状態(心神喪失)」と鑑定されると、裁判官が「責任能力がない」と認めて無罪になることがある
3)鑑定が「判断力が著しく減退している状態(心神耗弱)」なら、刑が減軽されるケースもある
4)「責任能力の有無」は心神喪失」との判断は一般的に「是非や善悪を判断する能力」と「行動を制御する能力」で判断する
というような位置づけのものらしい。

今回の裁判結果が注目されていたのは「責任能力」を裁判の焦点とする場合、弁護側が用意した鑑定人の鑑定結果を基に弁護側が「責任能力がないこと」を主張するケースが一般的である。
しかし、今回は検察側の鑑定人も弁護側鑑定人とほぼ同様の鑑定結果を出していることである。
(※ 詳細は、2008年3月10日の第9回公判での鑑定人の証言の詳細が掲載されているブログ参照

しかし、河本雅也裁判長は、事件当時の歌織被告の精神状態は「適切な行動の抑制が困難な状態にあった」と鑑定の信用性を認めつつも、「攻撃する運動能力」「自分の行動と被害者の反応を記憶している意識の清明さがあった」として「責任能力はあった」と結論付けたのだ。

報道やコメンテイター、ブログなどで、世間の論調をチェックしてみると「人を殺し、隠蔽行為をしている」「精神鑑定はいくらでもフリができる」「どのような事情があろうとも故意に人を殺している」のに「鑑定結果によって責任能力の有無を問う方がおかしい」などの意見が大方のようだ。
確かに、殺された遺族の「心情」「感情」を慮れば、私もそう思う。

ただ、そうであれば「精神鑑定の位置づけ」とは何なんであろう。
繰り返すが、精神鑑定のポイントは「責任能力」。
「責任能力」のポイントは、今までの判例から「是非や善悪を判断する能力」と「行動を制御する能力」であるようだ。
弁護側、検察側双方が3月の第9回公判で証言した鑑定結果を一度確認して欲しい。
この鑑定を見る限り「責任能力」のポイントととなる「是非や善悪を判断する能力」と「行動を制御する能力」は、少なくとも事件当時は欠けていたように思える。

しかし「責任能力の有無」を判断する2つの点について、能力が欠けており、仮に「責任能力がない」とすると「無罪」になる可能性もあった。
ただそうなると、理屈抜きで社会性や道徳的見地から、なんだか釈然としない気持ちになるのも事実である。

そう考えていくと「精神鑑定」の位置づけを明確にしなければ、精神医学的見地から見た「責任能力」の評価についての専門家である鑑定結果が「単なる参考意見」になってしまうし、「軽視」にも繋がる。
今回の判決が分かりづらいのは、
「(精神医学的見地より)責任能力がないと考えられる評価をした鑑定結果は信用性があるが、(犯行を犯す上での)責任能力はあった」
というような判決だからである。

そのようなわけで、「精神鑑定の位置づけ」や「罪が問われるべき責任能力の定義や評価尺度」という概念が「現代の社会常識と照らし合わせて」もう少し国民に分かりやすく明確にしていくなどコンセンサスを取っていかなければ、「裁判員制度」で混乱することになるのではないだろうか。

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