私たちは日常の世の中の出来事を、基本的には新聞やテレビ、インターネットなどのニュースを通じて知るしかないが、そのニュースでさえその内容やどのように取り上げるかの判断は、編集者やプロデューサーやディレクター、キャスターなどが誰かの主観的な視点がある程度は入っているのだろう。
したがって、私たちは「事実だけを客観的に捉えている」つもりになっていても知らず知らずのうちに「報道が伝える論調や世の中の風潮や空気」の影響を大きく受けている。
私は仕事柄、「第三者の立場からものごとを客観的に見る」と言う点については敏感になっいて、できるだけそうありたいし、そうあり続けるためにどうすればいいのか、と言うことを常々考えるようにしている。
大げさに言えば、「人生のテーマのひとつ」と言ってもいい。
私の場合、客観的にものごとを捉えるためにどうしているかと言うと、例えば、
1)好き・嫌い、得意・不得意な分野を問わず、なんの話題にも関心を持つ
2)自分と生活スタイルが全然異なる友人を持つようにする
3)相手の話が首尾一貫していて、筋道が立っているか考察する
4)ものごとを「好きか・嫌いか」や「支持するか・しないか」ではなく「理解できるか・できないか」、「理解できなかった部分は自分が浅学なためか・筋道がたっていなかったためか」を考える
と言う観点で捉えるようにしている。
もちろん、1)~4)について自らの行動が徹底できていないときもあるが、少なくとも「そうありたいな」とは思っている。
「客観的にものごとを捉える必要性」は、「好きか嫌いか」といった「主観的なものごとの捉え方」を中心に過ごしていると、ものごとの本質を見誤ってしまうことがあるからだ。
また「顧客視点、他者視点」で何かを評価し、決定する必要性があっても気づくと「自分視点」になっている。
そうなると「相手を思いやっている」「他人の事を尊重し配慮している」つもりで行動していても、結果的には「独りよがり」「大きなお世話」「ありがた迷惑」「ちょっとピントがずれている」ということになる。
ただ、ものごとを考察して論じたり、プロセスやパフォーマンスを改善する上では「客観的事実」を理解することは重要であるが、それのみを追いかけていては解決しない問題もあるのではないかと思う。
「主観」は当事者にとっては「事実である」からだ。
「主観的な部分」を客観的に理解するためには、相手の状況(例:経験、嗜好、生活習慣、文章伝達能力、論理能力など)をこちらが想像できなければいけない。
為政者や世間で「エライ」と言われている人は、この想像力に欠けている人が多い気がする。
(※ 自分を変える“気づき”ロジカルシンキングのススメ メルマガ68号より)
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