「本日の取材は以上となります。お疲れ様でした」

パイプ椅子に座った遊太は深く頭を下げた。

20畳ぐらいの広さがある空間に対面している二人とカメラマン、周りには照明と背景スランドを片付けたスタッフたちの姿が映った。遊太の目の前にいる綺麗な顔とスリム体型というスタイル抜群なモデル女優の女の子がにこやかな表情で「ありがとうございました」と一礼すると隣から銀縁眼鏡のシャキンと姿勢を正した男性マネージャーが来て軽く挨拶を交わしモデルさんと一緒にスタジオを後にした。

「御殿道さん。お疲れ様でした」

「お疲れ」

遊太とカメラ撮影担当の御殿道は自分達の荷物を片付けた後、スタジオ内に残っているスタッフたちに一言挨拶をしてから立ち去った。遊太の左腕に付けている腕時計の針は「11:25」を示していた。つまり、今の時間は22時を過ぎているのだ。夜遅くまで取材をしていたのは、最近人気上昇中のモデル女優のスケジュールが過密すぎてなかなか空き時間がなかった為、午後23時からの25分間だけしか時間が取れなかったのでSF(ソーシャル・フレンズ)の先輩でもあるカメラ撮影担当の御殿道と一緒に水道橋のとあるスタジオに来ていたのだ。因みに遊太がインタビューしたモデル女優はこの後、深夜番組の生放送とラジオ番組に出るのだという。長い間、芸能関係の取材をするといろんな様々な人と出会う。スタジオ会社のエレベーターに乗って一階へ下りる。エレベーターの中は人は少なくみんな帰宅するところだった。遊太と御殿道はスタジオ会社を出たらそのまま代官山にあるSF(ソーシャル・フレンズ)本社には戻らずそのまま直行で帰宅することになっていた。SF(ソーシャル・フレンズ)本社は夜22時には閉まっているので今から戻っても開いてはいない。

それに今日は本社に帰れないぐらい忙しかった。今回の取材を含め他にも別の芸能取材があり足が棒になるぐらいあっちこっち移動しまくった。先輩の御殿道は元新聞記者で本社社長が知っている限りでは、彼は政府関連機関や大手企業会社の不正取引や公金横領、汚職疑惑などの犯罪に染まるお偉いさんの真相を暴き出すスクープを数多く取り上げてきた凄腕記者なのだ。現在は42年間務めた新聞記者を辞めてSF(ソーシャル・フレンズ)のカメラマン兼政治関連の記者をしている。遊太は時々彼とバディを組んで一緒に現場へ行っている。

SF(ソーシャル・フレンズ)にとって御殿道は貴重で大事な逸材だ。

エレベーターが1階に着くとドアが開いて一緒に乗り合わせた人達と一緒に降りた。自動ドアが開き建物を出ると外は真っ暗で人通りは少なかった。でも、昼間と比べて夜は夕涼みに丁度いいぐらいの気温で風があって気持ちいい。

「御殿道さん。本日は暑い中、最後まで付き添っていただきありがとうございました」

ビルを出てすぐ上司にあたる御殿道に頭を下げた遊太。

「なに。これも仕事の一環だ。久々に君と仕事ができてよかったよ」

そうなのだ。遊太と御殿道が一緒に仕事をしたのは二年振りなのだ。御殿道は番記者として政治関連の取材だけでなくテレビニュースのコメンテーターとして活躍しているのでなかなか共同で仕事をする機会がないのだ。今日は金曜日で御殿道のスケジュールがたまたま空いていたから朝の10時から一日中取材現場を一緒に回っていたのだ。

外に出た時、遊太のお腹の中は空っぽで胃袋から悲鳴があがりそうだった。まだ夜ご飯を食べていないのだ。

「お腹すきましたね~。御殿道さん、どこかで飲んで帰りませんか?」

御殿道と一緒に夜ご飯を取るなんてすごく久しぶりだ。昼飯の時は一緒に松屋で牛丼を食べた。夜は何食べようと考えつつ御殿道とまた一緒に食事ができる楽しみもあった。

期待しつつ彼の答えを待っていたが、御殿道は申し訳なさそうに誘った遊太に謝る。

「ごめん。この後、12時から汐留で「NEWS ZERO」の撮影があるんだ。すまないけど、また今度行こう」

残念。せっかく久しぶりに二人でご飯行けると思ったのに。

仕方がないと諦めた遊太は飲みの誘いはまたの機会にすることにした。

「では、またの機会に。駅まで同行します」

そう言って遊太は御殿道と一緒に水道橋駅まで歩いて行ったのだ。

 

水道橋駅の東口は人がまばらでほとんどは仕事帰りのサラリーマンやOLがいた。

東京ドームシティは一日を終えて眠っているかのように真っ暗で完全に閉鎖されていた。観覧車も機能停止している。水道橋の街に建ち並ぶビルは灯りすらなく真っ暗気になっている。暑さが和らぐ夜の街は昼間の喧騒を忘れるかのように静かで落ち着いた時間を迎えていた。道路には車やトラックがほとんど走っていて街灯が仄かな光で道を照らし大半の店は閉店していて昼間とは違う景色が見えた。

遊太と御殿道はもうすぐ水道橋駅に着くところだ。御殿道は三田線 白金高輪行の電車に乗って汐留へ。遊太は三田線 西高島平行と埼京線 大宮か川越行電車に乗って最寄り駅へ。夜ご飯は最寄り駅で済まそうと思っていた遊太はベテラン先輩と共に水道橋駅に着きsuicaを出して改札口を通ろうとしたその時だ。

改札機を通る全身スーツを着た一人のサラリーマンに目が映る。半袖ワイシャツの前ボタンを外したスーツに緩めたネクタイ、片手に黒い鞄を持っていて疲れ顔を浮かべた男だ。その男は、どこかで見た事がある人物で遊太の知っている人でもあった。その男は何者なのか遊太は一分も経たない内に思い出した。

「江嵐!」

遊太が声をかけると男が呼び声に反応したかのように振り向く。

すぐ近くに自分が知っている男が立っていて彼の顔を見た瞬間、目を見開いて「宮田?!」と驚いた。軽く手を振りながら近づく遊太は「久しぶりだな~」とかつての友人との再会を喜んだ。

遊太が声をかけて呼び止めた彼の名は江嵐 徹(えがらし とおる)。高校に続いて大学時代でも仲が良かった友達の一人だ。至って普通の男性だが数学が得意で分からない時はよく教えてもらった思い出がある。特に江嵐は高校時代の時、日本代表の一人として数学オリンピックに出場した経験があるのだ。数学に困った時は必ず江頭に何度も助けを求めたものだ。

「7年振りか?元気にしてたか?」

友人の再開に喜びを見せる江嵐は嬉しそうに笑う。さっきは、疲れ顔を浮かべて改札口を出てきたのに今は嘘みたいに明るい顔をしている。疲れていそうな表情が見えたのは気のせいだろうか。

「うん。久しぶりにLINEしようと思ってたらいつの間にか君のアドレスが消えていたから心配したよ」

それを聞いた江嵐は苦笑いをしながら謝った。

「ごめん。あの時、LINEが壊れて連絡ができなかったんだ」

そうだったのか。それは大変だったね。

遊太は原因を聞いて安心すると隣から御殿道の声が聞こえた。

「知り合い?」

「はい。高校時代と大学時代の友人の江嵐です」

大先輩に江嵐を紹介した後、今度は江嵐に「僕が働いている会社の先輩 御殿道さんだよ」と紹介した。江嵐は友人の隣にいる年配男性に「江嵐です」と自分の名を言い軽く会釈した。軽めの挨拶を済ますと江嵐は遊太に向き直る。

「どうしてここに?」

「御殿道さんと仕事で来たんだ。江嵐は?」

「仕事の帰り。今、水道橋に住んでるんだ」

「引っ越したの?」

「ああ。5年前にね」

江嵐は頷いた。六年ぐらい前の時は高田馬場に住んでいると聞いたがまさか、水道橋に引っ越していたとは知らなかった。確か、江嵐の勤め先は高円寺にある営業会社で働いていると前に聞いたことがある。会社名は忘れたがかなり忙しいみたいでなかなか休みが取れないとLINEでボヤいていた。でも、今の仕事はやりがいがあると言っていたので過労には気をつけなよと一応忠告をしたこともあった。でも、仕事帰りでバッタリ合うとは思ってもみなかった。お互い仕事で疲れた顔を見せまいと笑顔を振りまきながら立ち話を続けた。

「そうだ江嵐。この後って時間ある?僕、まだ夜飯食ってないんだ。せっかくこうして会えたんだしよかったら一緒に飯食わない?」

遊太の誘われた江嵐は気を遣うかのように御殿道の方を見た。

「別にいいけど。でも、お連れさんの方は大丈夫なのか?」

江嵐が訊ねた時、今さっき初めて会ったばかりの御殿道が笑いながら言った。

「私は大丈夫ですよ。この後、次の現場へ行かなくちゃいけないので」

これから仕事があることを教えると御殿道は遊太に言った。

「私のことは気にせず、友達同士行ってきな」

優しい一言に遊太は「はい。ありがとうございます」と礼を言った。御殿道は江嵐に一礼し遊太には軽く挨拶をしてから改札機を通り三田線があるホームへ向かった。先輩を見送った遊太はどこへ行こうかと話し合い夜飯を食う場所を決めて歩いた。久しぶりの友人とこうして会えたんだから学生時代の思い出や今の暮らしなどの話で花を咲かせようと思う遊太。こうして彼と話すのも久しぶりでさっきまでの仕事疲れが忘れてしまいそうだ。

 

水道橋駅東口から少し離れたガード下は人通りが少ない寂しい場所だった。しかし、その寂しい場所に仄かな優しい光が見えた。赤提灯をぶら下げた屋台が暗闇のガード下を照らしている。その屋台はリアカー式で昭和情緒を感じる懐かしさが滲み出た味のある店だった。暖簾には「ラーメン」というカタカナで分かりやすく書いてある。屋台の店主は70代ぐらいの高齢者で腰にエプロンを巻き頭にはねじり鉢巻きを締める人情がありふれていそうな人だった。令和の時代にこういった古い屋台があるのは新鮮味があって興奮する。丸いイスに座りカウンター席に着いた遊太と江頭はお冷を受け取ってから人情感ありそうな店主に注文した。遊太は麺大盛で江頭は普通の量を頼んだ。湯気が立ち上る熱々の湯に麺を入れた店主が鳴らすまな板の音はどこか懐かしい安らぎの響きが耳に届く。二人は貰った冷や水を一口飲むが屋台には他の客はいなくて空席だけが残っている。客が来る気配もないので今夜は二人だけの貸し切り状態になっている。とはいっても席は全部で四つしかないので残ったのは二席だけだ。

まな板の音しかなかった静かな空間で遊太が口火を切った。

「こうやって一緒に飯食うのも久しぶりだね。最後に行ったのはいつだっけ?」

コトンとカウンター席の上に冷や水を置いた江嵐は言った。

「7年前ぐらかいかな。アメ横の居酒屋で」

「そうだそうだ」

思い出して頷いた遊太はあの頃が懐かしいと思った。7年前、上野で動物園の帰りにアメ横にある居酒屋で飲んで帰ったのだ。その時は、他の大学時代の友人も一緒にいた。上野動物園ではゾウやライオンなど様々な動物を観に行ったものだ。ふれあい体験コーナーではリスザルやヘビなどの爬虫類から小動物まで触れ合った。中で一番大変だったのはパンダだ。ニュースでも取り上げている有名パンダを観に行ったが気が滅入りそうなぐらい長蛇の列で並ぶのに相当時間がかかった。確か2時間ぐらいかかったが、何とか生パンダを観られたのでとても満足した。あの時は楽しかった。そして、帰りはアメ横の居酒屋で飲んで食った。今思い起こせば阿呆なことをしたものだ。実は、遊太はアルコール度数が高いお酒は苦手で普段は時々、度数が低いお酒を飲んでいる(特に「ほろよい」が好き)。その中で遊太は居酒屋で売っていた緑茶ハイを頼んでしまったのだ。初めは緑茶ハイだから緑茶で度数はそんなに高くはないと思っていたが一口飲んだだけで5分でノックアウト。まさかの度数が高い酒を注文してしまった為、酔いが回り結果的に友人たちが介抱してくれた。水をがぶ飲みしたのは憶えているが、ご飯は食べたのか全く憶えておらず結局泥酔して気づけば友人宅にいたという始末。幸いにもその友人が上野から近いところに住んでいたので遊太を負ぶって家まで連れて行ってくれたらしい。我ながら申し訳ないことをしたと後悔したものだ。

「あの時以来だったね。君となかなか会う機会がなくなったのは」

そう。アメ横で飲んでから四ヶ月ぐらい経った時、遊太は公開したばかりの映画を一緒に観に行こうと誘った。しかし、江嵐は仕事が忙しい理由で断念したのだ。他の友人も誘おうとしたが、ほとんどが仕事や用事で予定が埋まっていたので結果、一人で六本木ヒルズの映画館まで観に行ったのだ。そして、また数日後、数ヶ月後に催促の連絡をしたが江嵐は仕事とかで予定が埋め尽くされ再び断念した。それからは既読スルーされっぱなしになった。それから1年の月日が経ち新年の挨拶にとLINEを開いたらいつの間にか自分の友達リストに江嵐のアカウントが消えていた。なぜ消えたのか遊太は分からなかった。幸いにも今まで連絡を取り合った履歴が残っていたのでそこからメッセージを送った。何度も送ったが正月が過ぎても返事が全く来なかったし送ったメッセージに既読は付いていなかった。気づいていないのかブロックされたのかと思っていたが、まさかのLINEが壊れたと聞いたら安心した。

「仕事の方はどう?」

遊太が話題を変えて仕事の話をし始めた。ラーメンを湯切りする音が聞こえた。店主は力強く湯水を切り丼ぶりに移した。今まで仕事が忙しいから会う機会が全くなかったので、今も忙しいのか遊太は訊いてみた。江嵐は湯切りする店主の姿を眺めながら水を飲む。

「まぁ、忙しい」

その一言だけ。それに、何だか思い詰めた表情を浮かべていた。実際は笑っているように見えたが、どことなく寂しそうでなんとなく物悲しさを感じた。何があったかは知らないがこんなにも思い悩んでいそうな彼を見るのは初めてだ。会社で何か嫌なことでもあったのだろうか?学生時代の時はとにかく明るくて何より楽観的な人だった。だが、今の彼はなんとなく昔と違う雰囲気を感じるが詮索はしなかった。

すると、目の前にいる店主が「ラーメン大盛、普通盛り お待ち」と威勢のいい声を出した。二人が座っているカウンター席に注文したラーメンのどんぶりが置かれる。どんぶりから見える透き通ったスープ、ボリューム感がある麺、チャーシューに刻みネギに黄身が丸見えの割れた茹で卵に二枚入りの大きな海苔が添えられ食欲がそそる正に美味しそうなラーメンだった。屋台のおでん屋は最寄り駅近くにあるのでたまに通うことはあるが屋台でのラーメンは東京での仕事を終えた時ぐらいしか食べに行けないので今日はラッキーだ。香ばしい香りが遊太の鼻の穴を通ったからなのかお腹が早く食べさせろと文句を言い出した。満たしを欲する腹を黙らせる為、遊太は割り箸を割って手を合わせた。

いただきます!

麺を割り箸に絡めさせていざ出陣。スープで染み込んだ長い麺が遊太の口の中で踊り喉の滑り台に乗って地下へ潜っていく。

うんめぇぇぇ~~~~~~~~~~!!!

心の中で悲鳴が上がった。今度は蓮華を手に取り香ばしいスープを喉に通す。コクと味わいが極限まで届いていてあまりの美味さに噛みしめる。これだから屋台ラーメンが好きなのだ!と声を上げる。

もちろん、そこら中のお店やインスタントも美味しいし好きだ。でも、屋台だけは違う。屋台にはそこでしか味わえない風味と旨味があるから一番好きなのだ。しかも、夜遅くに食べるのは最高。今はまだ夏で暑い中、熱々のラーメンを食すのも悪くない。あまりにも美味しくて顔面崩壊しそうになると店主が「美味いだろ?」と笑いかけた。危うく変な笑顔になりかけそうになった遊太は恥ずかしくて顔が一瞬だけ強張って麺を口に含みながら「ふぁい」とほころんだ。

あっぶね~~!もう少しで変な顔を見せるところだった。

時折あるのだ。美味しいものを食べると顔がほころんでうまそうに食べている姿を見せてしまうことが。これを誰かに見られるとめっちゃ恥ずかしい。ラーメンこの野郎!そう思いながら割り箸で真っ二つに割れた茹で卵の一つを口に投げ込む。暑いけどうまい!一方、江嵐の方は真顔で黙々と食べている。遊太みたいに大袈裟な喜びの悲鳴を上げず淡々と食べ進める。美味しそうに食べる顔は全くせず真顔で麺を啜る。そんな彼を見るとまるで自分が大はしゃぎをする子供みたいに思えて顔面崩壊より更に恥ずかしくなる。それにしても、本当に今の江嵐は変だ。普段は明るいのに今日に限って暗そうに見える。さっき、水道橋駅で再開した時もひどく疲れている顔をしていた。まるで、抜け殻みたいで気力が失い一気に脱力感と疲労感の波に襲われたかのような。とにかく遊太より酷く疲れているようにも見えたし落ち込んでいるようにも見えた。全く表情を変えない江嵐に遊太は「何かあったのか?」と声をかける。すると、江嵐はさっきの一言に反応して動かしていた箸を止めた。

「何かって?」

平然とした顔をしている友人に遊太は蓮華でスープをすくいながら言った。

「何か困ったりしているのか?ってこと」

口につけた蓮華でスープを一口だけ飲む遊太の問いに対し江嵐は訊き返す。

「なぜそう思った?」

理由は単純だった。

「前よりだいぶ暗そうに見えた。昔は、明るくてこう楽観的なポジティブ人間だったのに今じゃ丸っきり真逆の方になってる。君が落ち込むなんて珍しいなぁ~と思って。それに君は顔に出るタイプだから」

それを言われた時、江嵐はどんぶりの方に目を落とした。熱いスープに染み込む食べかけの麺と具材を見つめながら肩を落とす。思い悩む表情を浮かべながらもだんまりと喋ることすらせずただ食べかけラーメンの顔を眺めていた。遊太は相変わらずガツガツ食っている。

「まぁ、無理に言わなくていいよ」

暗い顔を浮かべた江嵐に対する優しさなのか遊太はあまり無理強いさせるつもりはなかった。世の中には話したくない教えたくもないことは一つや二つもある。自分から首を突っ込む必要はない。でも、江嵐は友人がどんな奴なのかは学生時代の時から知っている。昔と変わらない彼ならきっと話を聞いてくれると思った。

「・・・・俺、今の仕事やめようかなって思ってるんだ」

彼の一言を聞いた時、箸を動かしていた遊太は一旦、食べるのを中断した。具材はもう無くなって麺はあとちょっとしか残っていなかった。江嵐は高円寺の商事会社に不満を抱いていた。何があったのか知らないが遊太は問いかけるかのように「どうして?」と訊ねた。ラーメンのどんぶりを眺めている江嵐は重い口調でその訳を教えてくれた。

「実は俺、入社1年目の時からスッゲェ落ちこぼれているんだ。成績があんま伸びなくてね。いつも低ランク。そのうえ、他社との社外会議では上司の指示通りに資料を作っただけなのに肝心な所が抜けていたのが発覚して悪いのは上司なのに全部俺のせいだと罵倒されたり、やっと仕事が終わって帰ろうとした時にいきなり追加業務が着て今夜中に終わらせろと無茶言い出して結局、残業で家に帰れなくなる。そのうえ、担当していない仕事を強制的にやらされたり夜まで取引先を回って会社に戻れば大量の書類を俺一人でまとめて対応したり会議資料を用意したりとかして気づけば朝になったり夜になったりの24時間労働を続けて残業代は出ないし厚生年金や健康保険料を差し引くと貰える給料はこれっぽっち。もちろん、通勤費は自腹。そのうえ、有給は貰えないし体調崩しても出社しなくちゃならんから休む暇すらないんだよね」

江嵐が言うこれっぽっちというのは人差し指と親指の幅が小さくてギリギリくっつくぐらい貰える給料が少ないということ。その少なさに遊太は目玉が飛び出そうなぐらい驚いた。そんな少額な給料で生活できるのかと思えもした。これはハッキリ言って─

「100パーブラックじゃん!」

驚きのあまり思わず叫んでしまった。

江嵐は友人が驚いているのにも関わらず静かに麺を啜る。

「年収いくら貰ってるの?」

「150万」

「ボーナスは?」

「なし」

年収30万の給料を貰い光熱費、電気代、通信料などを払うと・・・・・生活できる費用はギリギリだ。

サラリーマン一人当たり貰える平均給与は461万と聞く。江嵐の年収は普通のサラリーマンより-311万も下回っている。つまり、月額を平均すると12.5万しかもらえない。ここから更に家の光熱費や電気代などを支払うと生活費は赤字レベルになる。だとすると、江嵐が現在持っている所持基金はすごく少ないはずだ。

「よく引っ越しができたな」

「大学時代にアルバイトで貯めた貯金があったからそれを使ったんだ。前に住んでた高田馬場のアパートは1Kで家賃は5万ぐらいたったが、今は家賃2万の3畳ワンルームに住んでる」

ワンルームで3畳の家。部屋は狭いしお風呂やトイレなどの生活音が部屋に響くだけでなく料理すらできないじゃないか。部屋の大きさと広さだけで予想がついた。遊太は悪いことをしたと責任を感じた。彼が今持っているお金が少ないと知らず飲みに付き合わせてしまった事で申し訳なく思ってしまった。江嵐は給料が少ないうえ所持金があまりないのを悩んでいるはず。そうと知らずに遊太は気安く飲みに誘い今こうして付き合わせてしまっている。それどころか、ラーメン一杯を払うお金はあるのかが心配だ。

「今日だって一日中、取引差に回っていたから昼飯食う暇なんてなかったんだぜ。それで、会社に戻ったら山積みの書類を片して会議資料を作ったりして・・・。なかなか家に帰れないし、家より会社で寝たりしてる。上司にはネチネチ言われるし成績が低いと個室に連れて行かれて怒鳴られるし。まぁ、営業リーマンだからしょうがないかな~。なんて思ったりして」

えげつないぐらいのパワハラを受けまくっている江嵐の話を聞くとこっちまで辛くなる。よく6年間、そんなクソみたいな会社で働き続けたなと思う。遊太なら即効で心がへし折れてしまう。

「だったらそんな会社辞めた方がいいよ。あんま無理してると体壊すぞ。いや、過労で死んじゃうぞ」

遊太はクソな営業会社なんて辞めちまえと薦めたが江嵐は

「でも、「会社辞めます」なんて言い出したらが部長がブチ切れそうで怖いんだよな・・・。また何か言われるんじゃないかと思うとなかなか。言ったら「恩を仇で返すつもりか!」なんて。あの部長の事だから絶対ありえる」

「なんだよそれ。それって「いい人材がいなかったから、仕方なく拾ってやった」みたいな言い方だよな?別に誰かに拾ってもらう為に会社に入ったわけじゃないし。確か、その会社に就職できたのって求人だったけ?」

「ああ。求人サイトで探してみたら見つけたんだ。今働いている営業会社、まあまあ有名で就職したら視野が広がるんじゃないかと思ったんだけど・・・。入社2年目になってまさかのブラックだったと気づいた時は遅かったよ」

まだ新人ほやほやだった頃は、パワハラ部長は優しくて社内光景が明るく見えたが、1年目になると仕事の量が増え2年目でまさかのブラック企業だったことに薄々気づいていた。過去に聞いた話では部長の餌食になった社員は精神が崩壊し入院や自殺し兼ねた人がいたという。あくまで噂だったので信じてはいなかったが、いざとなると今は彼らと同じ被害者となっている。耐えて耐えて耐えて抜いてみたが、さすがの身体と精神が限界に達していた。もしかすると、近い内に倒れるんじゃないかぐらい部長の言いなりであちこち動き回り続けている。

「それに、その部長は会社ではとても信頼されていて人の手柄を平気で横取りするほど名声を欲しがっているんだ。この前なんか徹夜で必死こいて作った企画を会議では俺じゃなくて部長に拍手喝采で称賛の声を上げたんだ。みんなは部長が一大企画の制作したものだと思い込んでいる。俺の手柄は部長の手柄って事になっているんだ。必死に作った企画を他人に横取りされたら最初はすっげぇショック受けるけど、今じゃ日常茶飯事なんだよな・・・」

こんなにもネガティブな話しをする江嵐は初めて見た。それどころか、その部長とやらはとんでもない奴みたいだ。彼の話を聞けば部長は自分の昇格目的で部下である江嵐を利用しているわけだ。その部長はかなりの悪徳野郎だ。遊太は思った。もし、自分がその部長の部下であーだこーだとパワハラされ続けたらメンタルが保てなくなる。今、働いているSF(ソーシャル・フレンズ)会社は立派なホワイト企業なので江頭には悪いが安心している。でも、ブラックで苦しんでいる友人をほっとく訳にはいかなかった。お互いそれぞれ違う人生を送っていても「友達」だけは変わらない。

「やっぱり、辞めた方がいいよ。その悪徳部長が何言おうと辞職して別の仕事に就いた方がいい。うちの会社で社会情勢について取材をしている人から聞いたことがあるんだけど、ここ近年で社員の使い捨て企業が日に日に増えているらしい。長時間労働やハラスメント行為、残業代に給与等の賃金の未払いとかが原因で離職率が高くなり中には精神崩壊で入院したり自ら命を絶とうとした人もいたらしい。そういうブラック企業の罠に掛かった人は大半、中途採用や求人情報がキッカケで入社したというケースが多いみたい。会社側にとって入社してくる社員は絶好のカモで人材を使い捨てる事で大勢の人に入社してもらった方が補助金で稼げることができるらしい。だから誰もが見る求人やリクルートなどの就活サイトにうまい具合で企業内容を書いて新しい人材を集めるんだ。君が今働いている会社も正にそれだよ。ここはホワイト企業だと分かって入社したらまさかのブラックだったというアクシデントに見舞われた人は意外にも多いらしい。あちらさんはたくさんの使い捨て人材を手に入れる為に巧妙な手口で自社を紹介したんだ。口車を乗せて。江嵐はその会社に騙されたんだよ」

前に社会情勢や問題を専門とする社員に聞いた話を江頭に教えた。ブラック企業とホワイト企業の見分け方は難しくてなかなか複雑だと真剣に話していたのを思い出す。人は簡単に騙すことができる。偽りを隠し巧みな言葉で相手を信じ込ませて思惑通りに相手を自分の手のひらで転がす。そして、裏切ることも簡単にできる。不要になった人を用済みとして切り捨てまた「新人」という新しい道具を見つけ出し再び手のひらで転がして得しようとする。人間は醜くて汚い生き物だ。ブラック活動する企業は単なるコンプライアンスが低い頭の悪い巣窟に過ぎない。こういう悪事をする奴はいつか必ず鉄槌が下るのだ。遊太は自分が働いている会社のことで悩んでいる友人に「絶対に辞めるべきだ」と後押しをした。しかし、何を躊躇っているのか江嵐はまだ思い悩んでいた。

「でもなぁ・・・。部長にはいろいろお世話になっているし、部長に叱られるのは俺がしっかりしていないからなんだよな・・・。「辞めさせていだだきます」なんて言ったら何言われるか・・。俺だけ逃げるみたいな感じがしてなんか突っかかりそうなんだよな」

「それなんだよ。最初は優しく接してその後は悪魔のようにいたぶらせる。結局、ブラック企業の上司は自分の利益にしか興味がなく人を道具のように扱うことしか考えていないんだ」

少し強めな言及を突き出した遊太だが江嵐はまだ悩んでいる。相談に乗りつつも彼は辞職したいのと上司が恐いのと辞めたら一人だけ逃げ出したかのように思われてしまうだろうか、等、恐れと心配と不安が募りに募って頭がパンクしそうなぐらい脳内が江嵐のネガティブな考えで埋め尽くされていた。こんなにも深く悩むぐらいネガティブになっているとは思ってもみなかった。遊太はまだ悩み続ける彼の姿にどうすれば自分から決断させることができるのか考えてみた。

「辞めたいと思ったらきっぱりと辞めた方がええよ」

甲高い声が耳に届いた。振り向くと声をかけたのはラーメン屋台のおじさん店主が声をかけたのだ。

ねじり鉢巻きを付けた如何にも人情味のあるおじいさんが二人の話を割り込むかのように参加しだした。

「兄ちゃん達にゃ悪いが話は聞かさせてもらったぞ」

店主は立ち昇る湯気を前に丸椅子に座りながら話す。店主は辞めるか黙っているか悩みを抱えている江嵐を見た。

「兄ちゃんの上司、かなりあくどい手を使っているみたいだな。俺が言うのもなんだがそこの兄ちゃんの言うとおり、そんな小汚ねぇ会社は辞めた方がいいと思うぞ。年収が150万ぐらいで食っていけるとは俺は思えんがな」

二人の相談話を聞いていた店主は遊太の意見に一理あると頷いていた。

「話を聞きゃその部長とやらは完全にお前さんを舐め切っとるんだよ。今でいうパシリってやつだな。そんな奴の下で働いてちゃ、あんた。生きていけないと思うぞ?」

とても真剣に話す店主に遊太と江嵐は聞いているだけしかできなかった。低い丸椅子に座り背中を丸め頭にはねじり鉢巻きを付けて昭和の親父っぽさが漂う店主は真剣な表情をしながらも彼なりの優しさが伝わってくる。

「人間は一長一短の良し悪しが激しい生き物でもあるからな。強者は弱者を制し弱者は強者に制され良い面もあれば悪い面もあり陰もあれば陽もある。人は見た目で判断して自分の都合と不都合を見定め嘘偽りを作ったりする。あんたが働いているという会社は自らの権利に不満を持たない都合の良い人間を捜していたんだと思う。あちらさんにとって就活生や転職者は絶好のカモで自分の会社はルールの意識や評価が高いとかアットホームな職場やらうちの会社に入れば活躍の幅が広げられるとか腑抜けた作り話をすれば就活生や転職者は罠とも知らずにまんまと自らの巣に入ると思っているかもしれん。鴨が葱を背負って来たみたいにあんたはその人達の口車に乗せられ今に至ったんだ」

その話を聞いて江嵐は頭を抱え込んでしまうぐらい更に落ち込んだ。大学卒業後、求人サイトで就職先を探していたところ、なかなか良さげな会社を見つけた。その会社こそが今働いているブラック企業だ。特に変哲もない会社内容を見てここにしようと決め面接に行き見事に就職。とんとん拍子な進み具合で新入社員として迎えた。まだ駆け出しの頃は先輩や上司はとても優しくていろいろ学ばせてもらったし仕事の後、飲みに誘ってもらえた。でも、入社して1年経った時、優しかった上司が徐々に厳しくなり仕事も更に増えた。その時は自分がパワハラを受けていることさえ気づかなかったが3年目になってやっと今の自分の現状に気づいた。しかし、反論する勇気が足りなければ世間に訴え辞職する決心がつかなかった。上司に逆らうことはできないし先輩たちも見て見ぬふりをして誰も助けてくれない。訪れるのは残業と叱責の連続。毎日が地獄だった。給料が低いのでお金が足りず水道代も電気代も家賃も何もかも払えなくなり元々住んでいた高田馬場のアパートの管理人に追い出され見つけたのは水道橋の狭い部屋のアパート。もう引っ越しのダンボールでほとんどが埋め尽くされ窮屈状態になっている。上司のパワハラに窮屈な部屋。もうノイローゼになりかけてもいいぐらい気が狂いそうだった。どんなに苦しくても我慢して今日まで生きてきた。疲労と寝睡眠不足と精神的ダメージが思いっきり襲いかかって来る。そんな中、今日久しぶりに友人と再会を果たした。精神がボロボロになっていても友人と一緒にいればちょっとでも心が休まるとも思った。もしかすると、今夜が最後の晩餐になるかもと心の中で思っている自分もいた。正直、今の彼は昔みたいにポジティブではない。ネガティブを通り越してマイナスになっている。姿形は変わらずとも雰囲気と様子だけが違っていて遊太は水道橋駅で再開した時から友人の様子がおかしいと薄々違和感を感じていた。

やけにブラック企業について詳しい店主に遊太は素っ気なく訊ねた。

「おじさん。やけに詳しいですね。もしかして、おじさんも経験したことが?」

店主はカッカッカと笑った。

「なに。ちょいと前に来たお客さんが愚痴っていたのを憶えていたまでよ」

そう言い店長は落ち込む江嵐の方へ向き直る。

「さっき、俺が「そんな小汚ねぇ会社は辞めた方がいい」って言ったのは、あんたの隣に座っているそこの兄ちゃんと同じ事を思っていたからな。まぁ、俺みたいな部外者が口出しするのはなんとなくおこがましいが、どうするかはあんたが決めるといい。これは、あんたの将来に関わる話だからな」

何だかとても良い話を聞いたような感じで遊太は初めて会ったばかりの客に熱弁をする店主に関心を抱いた。この人は本当に人情が厚い人なんだと分かった。

「だが、これだけは忘れるな。人は共生がなければ生きてはいけない生き物だ。どんな困難が待ち受けようとも人間同士、互いを尊重し助け合えば強く生きていける。助けを求める事はそんなにカッコ悪くはないんだぞ」

彼の言葉に遊太は賛同した。

「そうだよ。独りで悩まないでたまには僕とか友達や家族とかに頼りなよ。ほら。人に頼ることはとても大切だって言うじゃないか。それに、そのイカレ部長にクビを言い渡されたら堂々と辞めちゃえばいいんだよ」

それを聞いて江嵐は口を紡ぐながらコクリと頷いた。

「でも、まずはイカレ部長を退治する方法を考えよう。もしかすると、一筋縄ではいかないかもしれないし。証拠や弱みを掴めば相手はグウの音もでないかもしれないしな」

悪魔のような企みをする遊太に店主はガッハッハと笑い賛成してくれた。雫を落とし鼻水を啜った江嵐は再開した良き友人と会ったばかりの人情厚い店主が自分の話を聞きいてくれた事に喜びを感じていた。三人は夜が更ける屋台の下で今後どうするべきか相談に乗りながら話し合った。夏の夜風を感じながら───