「人生には、生きがいとか、生きる意味とか目的とか、趣味とかか゚必要だ」と言い、そういったものがなければ、「人生が無意味」だとか「生きることが苦痛だ」だと思うそのたびに、人間は、自分で自分を「不幸」だと思い苦しむだろう。


人間以外のすべての動物や植物は、(動物園の動物ですら、)自分が「不幸」だとなどとは微塵も感じず毎日を暮らしている(ように見える)。


人も動物も植物も、ただ産まれ、生き、死ぬ。


それ以上の「意味」や「目的」を考えることは無意味だ。そんなことを「考えざる得ない」肥大化し過ぎた異形の脳を持ったことが、異形の生物である人間の悲劇であり原罪であろう。

「許すのは、相手のためではない。自らの心の平安のために許すのだ。」

というフレーズを、Amazonの、外国人が書いた自己啓発本の紹介文で読んだが、何の本だったろうか?


カーネギーの「道は開ける」に出てくる

「孔子も言っている。『虐待されようが、強奪されようが、忘れてしまえばどうということもない』。」

や、

「至人の心を用うるは、鏡の如し。将らず、逆えず、応じて而して蔵せず。」

に通じるものがある。


それができた時、はじめて「木鶏たり得る」のだろう。

人間が作り出したすべての「もの」には意味や目的がある。

そうでないものには、意味や目的はない。


人間が「もの」を作り出すときに、また作り出したすべての「もの」について、考えることは必要だし有用でもあろう。

だが、そうでないものについて考えることに、本当に意味があるのだろうか?


突然変異で肥大化した、たかだか千数百ccの新皮質で分からないからといって「神」だの「宇宙」だのの「大いなるちから」だの「意思」だのと・・・


考えるのは自由だが、まさに「馬鹿の考え休むに似たり」「小人閑居して不善をなす」だ。


人の手に依らず存在し変容するすべては、ただ存在し変容するのであって、それ以上でもそれ以下でもない。


「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」