ふと、これって「退屈」?って思った。今の生活。コレが退屈なのかも。

私はあんまり、退屈、と思ったことがなくって。いつもやるべきことがあって、

そこから逃げ出して空想の世界に遊ぶことに忙しかった。だからだけど。

今、すべきことが見つからない。やりたいこともないわけではないけれど、

そこまでの意欲がもてない情熱がない。

そして、腹がすいては食事をし、汚れたら掃除をし、眠くなったら眠ってそして月日が過ぎていく

・・・ふと気づけば自分がずいぶんと年を食ったことに気づく・・・そういう感覚。

てか、まだ30代でそゆコトいうのは早いんでは、と若干思わんでもないんスけど。


日々、つまらない、のかもしれない。やることがないのは楽だけど、どうして皆、そうやってしゃかりきに

いろいろ何かできるの?そうやってて楽しい?じゃあ、あたしはどうやったら楽しくなるんだろ?楽しくできんだろ?

おばちゃんとかでたまに、すげえパワフルでニコニコしてて豪快に笑い飛ばしてる人がいる。

そこまででなくても、にこにこ朗らかにしている人がいると、どっかで反発覚えつつ、不思議になる。

なんでそんなに、楽しそうなの?何がそんなに楽しいねん。明るく楽しく幸せに生きる。そんなのを

求めてるだけなんだろうに。それなのに、そうして生きているように見える人々に、不審の目を向けてしまう。

そんなことしてるんで楽しいの?幸せなの?へぇ~え・・・(よくわからんな)って。

あたしなら、同じポジションにおかれても、きっと楽しいとか満たされてるとかいう気持ちにはならんな、

ってことがほとんどだから。人生って、何してたら楽しいとか満たされるとかするんだろう??

って考えちゃう。良い仕事ができたら?他人から感謝されたら?愛する人に愛されたら?


そういう、私としては真摯な問いかけを、大阪の上司さんには辞め際に「じぶんさがし」とかの

陳腐な言葉に集約されてしまって、それなりにムッとしてたんだけれども。

彼女のように、知名度も高くさまざまな人に頼りにもされ、バリバリと音がするように仕事をして

生きている人から見たら、きっと私は甘ちゃんに見えたんだろう。・・・でも、私は間近で彼女の生活を

見ていたけど、ダンナがいて息子がいて金もあって仕事もして・・・でも「幸せ」からいったらどうかな?

って思っちゃったんだよな・・・ロールモデルにはならんな、って。ひどく、しんどそうに見えた。

これはゴメンやな、って。あたしはいやや、って。


人生を、人間としてこの世を生きることを、すばらしいとは思えないでいることに変わりはない。

この世を生きることに、あたしが価値を見出せたら、変わっていくんだろうか。所詮この世は幻なのに?
愚かしい人間の歴史を生き様を、時折私はひどくいとおしむ。それは何故なんだろう・・・。


何の疑いも持たず、充実した毎日を送る、というオプションだって、ありえたんじゃないか、と思うんだ。

けど、あたしはそれを選ばなかった。自分で、たぶん、それじゃないほうがおもしろい、って思ったんだろう

けど。でももう、押しつぶされそうだよ。すりきれてしまいそう。

・・・さっきから、微妙に涙が出るな。なんだろう、なんかの解放になってると良いけど。


自分の傷つきに、苦しみに悲しみに怒りに、まだしがみつきたい部分があるように思う。

だって、あたしはそれだけ苦しんだんですもの。

そんな、いまさらハッピーに、なにごともなかったように生きるなんてアリ??!みたいな。

今の私の状態が、私が過去どれだけ苦しみ悲しんできたかの証拠なのだから、

それを消すだけでは、証拠隠滅を図られているようで、私の苦しみとしては

それは看過できないことである、のは、なんか理解できる。じゃあ、どうすればいいんだろう。


人生の前半の大半を、「私」は苦しんで生きた。その証は、わたしの体のあちこちに残っている。

その「証」は、さまざまな知見を、気づきを、深みを、学びを与えてくれる。だから、大切にすればいい。

そして人生の後半は。悲しいことも苦しいことも辛いことも、まだまだ多く感じてしまうけれど。

ただ、受け入れ見つめ、それが何を教えてくれようとしているのかに意識を向ければいい。

そして、一番難しいこと。私は私を大切にできてこなかった。

私は私を大切にしていくコトを、学んでいるのかもしれない。

一番、抵抗があることだから、自分自身を愛するということは。

だから、少しでも愛せるものを集めていって(大好きなロシア音楽とかな☆)、

私の反映であるそれらを愛することから始めて、じょじょに「私自身」も愛し大切にすることができるようになるのかもしれない・・・そんなことを、思った。