依頼人(23)エンタメとアトラクション | IGOSHI・WALKER’s THIS IS ME =井越歩夢は書く語る=

IGOSHI・WALKER’s THIS IS ME =井越歩夢は書く語る=

  
井越歩夢(IGOSHI・WALKER)

ライトノベル作家・ブログ小説家・AI生成イラスト・AI生成文書技師

そんなこの私のつらつらと思うまま徒然なるままに何か何かを書く語る場所である


霊カウンセラー

黄泉野カレンは悪気を捌く
依頼人(23)エンタメとアトラクション

 

現代人には、古代人と比較して恐怖を感じる場面に遭遇する機会というそれそのものが非常に少なくなっていることは明白である。

そして現代、人はそれを、恐怖をエンターテイメントやアトラクションという形に変えて、自らそれを求めそしてそれを楽しむ。

そんな考えを思い浮かべたとき、私はふと思った。今恐怖はエンタメやアトラクションであるとするならば、すべての恐怖、恐れ、不安、そういった感情はアトラクションと同位の存在と言い換えられるのではないかと。

 

私は黄泉野カレン。某国某都某市駅前でヨミノカウンセリング室を営む心理カウンセラーだ。

 

ちょっとした嵐、それを忘れさせてくれる知らない場所を知る時間、そして気の緩みから一人の男性を巻き込むことになってしまった、まあ、迂闊だった帰省と、嵐再び・・・と思っていた予想以上に、再び友人になれそうなそんな出来事。

依頼者の話を聞きながら思い出した、かつて会社という組織に属していた遠い昔の私のこと。

 

最近、まあまあ最近、なんというのだろう、色々あったなでいいか。そう、まあまあ色々あった。

 

そんなことを思いながら、今日の昼の仕事を終えた私は、夜の仕事までの時間に一つの物事とそれに関する多方面視点を持って一つの結論を導き出す、そんな考え事をしていた。

 

こういう機会奇天烈な思考を巡らせる時、いい場所は部屋のベランダ。そしてアニスという煙草だ。

時間は21時。夜の依頼者の時間まで5時間ある。考え事もそうなのだが、それまで貯まっている細々とした雑務もしなければならない。

 

考え事は、15分。私はそう心に認識させたことを確認しつつ、思いに思考を傾けた。

 

結論、恐怖をエンタメ、アトラクションと置き換えれば、大抵の恐怖は、大抵の予期せぬ出来事は、映画や絶叫マシーンとなんら変わりのないものと認識できる。

 

私はホラー映画を苦手としていた。なのだが今は、ある出来事をきっかけに、あの日を境に、私はホラー映画の中に楽しみを見出している。

彼女の、若い友人真城ナミちゃんから教わった「ホラー映画の怖さを成立させる映像の作り方とその法則」を理解して以降、私はホラー映画を怖いという対象ではなく、如何に怖がらせようとしているかその手法を考察する言って終えば「恐怖視覚及び聴覚の付与表現を学ぶ教材」となっている。

ホラー映画というそれそのものの楽しみ方としたらもうこれは、作品を楽しむというより作品を分析している。映画自体を楽しんでいないじゃないかと言われそうなのだが、楽しみ方はそれぞれ。私は、それを考察することに楽しみを覚え苦手だったホラー映画を克服した。

恐怖を一つのエンタメに変えてしまった。

 

では、それと同じくして、絶叫マシーンはどうだろう。

 

あれもまあ・・・私は苦手だ。今でも苦手だ。積極的に乗ろうと思わないしまあそれ以前に、それのある場所、テーマパークになど何年行っていないか・・・一緒に行く相手もまあ居ないし。

いや、アイラとなら時間を合わせやすいから一緒にいけるか。でもまあ、お互いテーマパークに行くならバイクに乗ってどこかに行こうという話になるだろう。

まあ、今後まだしばらくその機会に恵まれることはなさそうだ。

何故私は絶叫マシーンを苦手としているのか。それは「乗せられているという不安」だ。

まあこれも、以前私の若い友人真城ナミちゃんに言われたことになるが、「カレンさんはバイクに乗るのにどうして絶叫マシーンは苦手なのですか?」とまあ、質問された。

 

その答えはこうだ。

 

「バイクは、自分で操っているから安心できる。絶叫マシーンは自分で操れない中で、急カーブ、急降下、急上昇をする。自分で操っていないから安心できなくて怖い。」

 

まあ、意外なことに私と同じ理由で友人原アイラも絶叫マシーンを苦手としている。正直、私もこれは意外だった。地元では名の知れた武闘派、某市にきてからもジムで汗を流し、そしてちょっと荒事になりそうな私からの仕事の依頼も受けてくれる怖いもの知らず。

彼女に対しそういう印象を持っていたことから正直意外としかいえなかった。

 

それはそれとして

 

絶叫マシーンというアトラクションも、エンターテイメントと捉えれば「恐怖を演出する」というところからしても同じものと認識できるのではないか。それを「視覚・聴覚」に訴えるか「体感」に訴えるか、その違いはあるものの根本には「人間の歴史上心理的恐怖を感じるもの」それの遊戯化それが恐怖のエンターテイメントであり、絶叫マシーンなのではないか。

 

であるなら絶叫マシーンも「恐怖体感の付与表現を学ぶ教材」という認識に・・・・

 

私はできる気がしない。

だがしかし、理屈的には理解できた。

 

恐怖のエンタメ、恐怖のアトラクションはそれぞれ体験を学ぶ教材と、私的には見てもいい。

そうであるならば、依頼者の抱える心理的精神的恐怖という悩みは、同じように体験を学ぶ教材と認識すれば恐怖と別の何かに変わる、そういうことではないか、と。

 

そんな考え事も、ベランダから夜の某市の通りを見下ろしながらアニスを2本楽しみ終わったところで、丁度そのところでメールの着信音とともに終了した。

スマフォを確認すると、送信者は今考え事の中で2回私の思考の中に浮かんできた私の若い友人真城ナミちゃんからだった。

 

「件名:今度の休みに遊びに行きませんか」

 

そこに書かれた行き先は、様々な絶叫マシーン、最強の絶叫マシーンのあることで有名なアミューズメントパーク。

 

・・・どうするカレン。

 

現代人には、古代人と比較して恐怖を感じる場面に遭遇する機会というそれそのものが非常に少なくなっていることは明白である。

そして現代、人はそれを、恐怖をエンターテイメントやアトラクションという形に変えて、自らそれを求めそしてそれを楽しむ。

そんな考えを思い浮かべたとき、私はふと思った。今恐怖はエンタメやアトラクションであるとするならば、すべての恐怖、恐れ、不安、そういった感情はアトラクションと同位の存在と言い換えられるのではないかと。

 

そして今日の日記の最後に

私はナミちゃんのメールにこう返信したことを記しておこう。

 

 

「いいよ。」

 

 

ヨミノカウンセリング室

某都某市駅前

13時〜20時(メールにて要予約)

定休日 毎週月曜火曜

カウンセラー 黄泉野カレン

 


 

霊カウンセラー

黄泉野カレンは悪気を捌く

依頼人(23)エンタメとアトラクション

 


 

 

 

超短編小説集合体

霊カウンセラー

シーズン2

=黄泉野カレンは悪気を捌く=

 

井越歩夢

IGOSHI・WALKER

 

次回予告

 

依頼人(24)

「見えないものが見えている」

 6月20日(木)投稿予定