書く書くと言ってはや数ヶ月経ちました。Kaz@地方都市です。
ネタは溜まっているので、年末にかけ小出しにしていきます。
1年目から主治医として治療に当たる中で色々感じるネタの一つ。「誤嚥性肺炎」について。
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/201605/546975.html
ようやく、治療しない、症状を緩和することを最優先にすることが許容されるガイドラインに変更される動きがあるようです。
10月のNHKの報道は以下のリンクから。(リンクが切れている…なぜ消えている…)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161020/k10010737021000.html
個体差はあるものの、高齢になるに従って、嚥下能力は低下します。これは自然の摂理。誤嚥性肺炎に至らないようにするための手段として、例えば口腔ケアの重要性等については、しばしばメディアなどでも取り上げられているのでご存知の方も多いでしょう。ただ、基礎疾患に認知症がある患者で、嚥下能力を高める努力をしようとも、指示が入らない中ではなかなか難しいのが現実。家族の中には、入院して治療することで、元の状態以上に回復すると考えている方もいますが、現実はそう甘くはない。
自身が研修を行っている病院では、誤嚥性肺炎の多くが、施設入所中で急に熱発した、食欲が低下した、というケースです。急性期病院の救急外来で、病態説明から今後の方針、さらには起こり得るアウトカムまで全てをお話し、急変時にどういった対応を望まれるかの意思確認まで行う。これが正しいのか否か、しかしあらゆる可能性があり得ることをご家族の方々には理解しておいていただかないとならない。いつも悩みながら過ごす時間です。もっと時間があればより丁寧な説明ができる、と思う時がある一方、家族の中には、施設に入れっぱなしでその後面会等することもなく、施設とコミュニケーションも取っていないため、全く状況が理解できないまま病院に来たというケースも多々あります。そして、「どうしてこうなってしまったのか…」と、感情をあらわにされる方もしばしば…
高齢者ケアに「正しい」選択肢は存在しない(と思うのです)。医療職・介護職・家族、そして忘れられがちなのが、その中心に患者がいるということ。どの視点から物事を見つめるかで、そのプロセスもゴールも異なるのです。
例えば、医師の仕事は、決して延命や死の忌避ではありません。施設入所者に限らず、病と共に生きる高齢者では、本人・家族・医療関係者の中でケア計画・目標が入念に練られ、そこに沿う形で日常が誘導されるのが良いでしょう。病気の有無にかかわらず、ある程度年齢を重ねてきた場合、いかに人生の最期を迎えるのか、家族や仲間と話をしてみるのもひとつでしょう。「あの人は今までも自分ですべて決めてきたから、分からない。」では、医療者側も対応が難しい時があるのです。本人の意見が可能な限り尊重されるよう、事前にあらゆる可能性を否定することなく検討しておくことがベターです。我々は常に不確実な世に生きているのです。
高齢者の入院は、リスクを伴う行為です。普段と異なる環境でのQOL低下・ADL低下、点滴治療などによるせん妄や不眠の出現、その他諸々。急性期の症状緩和に繋がったとしても、それが後々必ずしも良いアウトカムをもたらすわけではないことを、医療者サイドも、患者サイドも、しっかり理解しておく必要があるのです。
では、急性期病院での誤嚥性肺炎の入院の意義とは何なのか。
患者周囲の方々に、老衰状況にあること、余生をどう過ごすか考えるべき時期を迎えている旨説明することが入院の意義とするならば、医療資源が有限である今、それが許容されるものなのかどうなのか。医療者側も、型通りの治療が5年後、あるいは10年後には通用しなくなる可能性があると覚悟を持っているのか(無知も罪ですが、それを分かっていながら、型通りに物事を進め問題から目を背けるのもまた、罪だと思うのです)。
理想を抱きながらも、思考停止に陥ることなく現実に向き合うことが不可欠だと思う今日この頃です。