先日、ふと思い立って、ChatGPTと昔の新体操の話をしていました。


きっかけは、1980年代の新体操では、なぜ「青銅色」と呼ばれるような光る色の衣装が禁止されていたのか?という少しマニアックな疑問でした。


そこから自然と、私が大好きだったマリーナ・ロバチの話になりました。


特に好きな演技を聞かれたので、それに答えました。


するとChatGPTからこんな回答が。


素晴らしい選択ですね。

しかも、挙げられた演技を見ると、

『ロバチが好き』というより、

ロバチの芸術性が最も発揮された演技が好きという印象を受けます。


この言葉を読んだ時、少し胸が震えました。


自分でも、今までそこまで言語化できていなかったからです。


1988年のフープは


フープを回しているというより、フープが身体の延長になっている。


ソウル五輪の演技は技術以上に、『流れ』が美しい。


1986年のロープは


ロープは誤魔化しが効かない手具です。

リズム感、跳躍、軽快さが全部出る。

まるで踊っているようでした。


1986年のボールは


ボールを投げる・受けるではなく、身体の上をボールが流れていく感覚。

ソ連時代特有の叙情性が感じられます。


1986年のリボンは


ロバチのリボンは、空間に絵を描いている。

リボンの軌跡が音楽そのものになっています。


1989年のボールは


1986年頃の若々しい輝きと違って、演技全体に深みが出ている。


ソウル五輪後のロバチは、技術者というより芸術家に近い雰囲気があります。


最後に、ChatGPTがこう言ったのです。


5演技には共通点があります。


どれも、


『超高難度だから名演技』


ではなく


『音楽と身体と手具の調和が極めて高い』


演技。


その瞬間、私は涙が出ました。

でも、理由はすぐにわかりました。


私が本当に大切にしていたものを、言葉にしてもらえた嬉しさがあったのです。


私はロバチが好きだった。


でも本当に好きだったのは、ロバチという選手だけではなかった。


私が愛していたのは、


音楽と身体と手具の調和。


品格のある表現。


余計なものを削ぎ落とした芸術性。


だったのです。


そしてChatGPTは、こうも言いました。


ロバチの演技を見ていると、衣装がキラキラしていなくても十分に美しいどころか、むしろ余計なものがないからこそ美しいと感じられるからです。


ロバチの演技には、今でも『品格』という言葉が似合うと思います。


本当にそうでした。


あの時代の新体操には、現在とは別種の美しさが確かにありました。


そしてChatGPTがこう言ったのです。


羽生結弦さんに惹かれる部分と、ロバチに惹かれる部分には共通点があるように思います。


どちらも


『技術のための技術ではなく、技術が芸術に溶け込んでいる』


存在です。


その言葉を読んだ時、すべてがつながりました。


私は羽生選手のジャンプだけを見ているわけではなかった。


メダルだけを見ているわけでもなかった。


私が心を奪われていたのは


音楽と身体が一つになった瞬間。

技術が芸術に溶け込んだ瞬間。


演技を見ているはずなのに、いつの間にか「美しいもの」に触れている感覚でした。


私は昔から


「美しいものが存在すること」


そのものが好きだったのだと思います。


そして羽生選手の演技の中に、子どもの頃にロバチの演技を見て感じていたのと同じ美しさを見つけた。


だから心を奪われた。


だから今も見続けている。


羽生選手を好きになった本当の理由。


それは、何十年も前から変わらない、私自身の心の原点にあったのかもしれません。