今日のお話は、断捨離提唱者やましたひでこの

Yahoo!ニュースより

「片づけられないあなたに」という記事をご紹介します。

 

丁度みなみちゃんのブログ企画「断捨離deお家エステ」開催中。

もう一度、根本のところを考えてみようbikurii

なぜ、断捨離の習慣化が必要なのか。

 

10年前、やましたひでこに会った時の私は

まさに「捨てられないんです・・・」と言っていた。

 

しかし、たった一度のセミナーで

これは習慣化にする事と、一生使えるツールだと言うことを

私は悟った。

 

そして、あれから10年

トレーニングを続け、今もなお 筋力を鍛えているのだ(笑)

 

Simplog

 

おかしなことに。

不思議なことに。

奇妙なことに。

 

クライアントさんや受講生さんたちのこんな言葉に、

とお付き合いしてきた。

いえ、過去だけの話ではなく、現在もずっとお付き合いしている。

 

「片づけられない」

 

おかしなことに、ほとんどの人が「片づかない」とは言わない。

実際、「片づけない」から「片づかない」のであって、

「片づければ片づく」はず。

だから「片づけられない」とは、「片づけていない」の意味だと解釈するのが妥当。

つまり、片づける行動をとれば、その分だけ、片づいた状態を手にすることができる。

 

とはいえ、そう簡単に思うように物事は運んではくれない。

実際、片づけても、片づけても、片づかないからこそ、結果「片づけられない」と

口にするようになってしまったのだ。

 

要するに、手に余る大量のモノたちが家中にひしめいているから、

家はいくら片づけたとしても片づかないだけのこと。

ならば、これからは「片づけられない」と言って自分を責めるような真似はやめて、

余計なモノを捨てていけばいい。

ところが、私はこんな言葉ともずっとお付き合いしてきた。

これも済んだ過去の話ではなく、今もってお付き合いし続けている言葉。

 

「捨てられない」

 

不思議なことに、ほとんどの人が「捨てたくない」とは言わない。

誰かに「捨てろ」と指示されているわけでもないのに、

「捨てられない」と言う。

 

実際、自分が「捨てたい」と思うならば捨てればいいし、

「捨てたくない」と思うならば捨てなければいいはず。

だから、「捨てられない」とは「捨てたくない」という気持ちの

婉曲表現と解釈したほうが妥当。

つまり、「捨てる自由」も「捨てない自由」も自分自身にあることを知らずに、

無用な遠慮をしているようなもの。

 

とはいえ、それも無理もないこと。実際、私たちは心の中でいつもせめぎ合っている。

「捨てようとしている自分」と「捨てたくない自分」が、反目しながら同居しているのだから。

要するに「捨てられない」とは、「捨てたくない」勢力が心の中にはびこって

優勢になっている証拠の言葉。

 

そして、もうひとつ。私はこの言葉にもずっとお付き合いしている。

「どこから手をつけていいかわからない」

 

奇妙なことに、ほとんどの人が「ここから手をつけます」とは言わない。

実際、目の前の空間を片づけたいと思い、目の前のモノを捨てたいと思っているならば、

目の前から手をつけて始めればいいだけのこと。

せっせと身体を動かして、いつだって、どこだって、どんなモノだっていい、

とにかく自分が「不要」と判断したものを取り除いていけばいい。

 

だから、どこから「手をつけていいかわからない」というのは、

自分の思考を放棄している言葉と解釈するのが妥当。

とはいえ、これを「思考停止」と単純に切り捨てるわけにはいかない。

長い間、手に余るモノたち、手に負えないモノたちに晒されていれば、

そんなモノがいっぱいの空間に身を置いていれば、誰だって思考は止まってしまう。

 

要するに、「どこから手をつけていいかわからない」とは、

身の周りの有様、つまり、住環境汚染の負の作用、負の症状。

 

片づけられない。

 

捨てられない。

 

どこから手をつけていいかわからない。

 

これは、私たちの日常生活での三大主訴。

いわば生活上の三つの大きな苦痛。だとしたら、

この苦痛は速やかに取り除かなくてはならない。

 

片づかない現状

 

捨てたくない心理

 

手をつける行動

 

現状(=症状)をよくよく見極めて、

心理を明らかにし、

思考を回復させ、

行動を促していく。

そんな「断捨離」という、いわば「外科的手術」を必要としている人たちが、

増えはしても決して少なくなってはいない。

 

だからこそ、モノや情報の過剰が招く

「禍」=「病」

を予防していくためにも、断捨離の習慣化は不可欠なのです。