駅前の道をまーっすぐ進んで見えてきた看板。


 

観光案内所のおばちゃんが徒歩だと駅から30分って言ってたけど、確かに結構遠いからギアなしで良かったら駅前で自転車借りていくのが正解です。

 

境内はそんな広くない神社なんですけど、ここ、真面目に良かった。



 

神社を良い悪いで区別するのは良くないけど、なんていうの、人が誰もいなくてさ、タイミングが凄く良かった。

 

観光地でもなんでもそうだけど、タイミングって結構重要よね、その人に与える印象の観点で。

 

今回、この山口大神宮は僕以外に一名しか参拝者がいなくて、雰囲気にいい意味で呑まれた。

 

この内宮・外宮が本番ですよ。


 

この階段をあがると


 

この空間。

 

やられました。

 

手前が外宮で奥が内宮。

 

神社というか、原始的なシャーマニズムを感じる空間に思えたよ。

 

外宮





 

そして、内宮。



 

この様式美に辿り着いた昔の日本人の感覚、やばくないですか?

 

この造りは美的感覚から来てるものなのか、それとも宗教的な何かしらのルールに基づいたら自然とこうなったのか分からないけど、これを造れる日本人の感覚は凄いと思わされた。

 

ちょっとこれから書くことは酔っ払いが書くような的を得ないことかもしれないけど(笑)、この↓写真でいうとさ、手前から見て一段あがったところに紐が張られていて、そこに白い、なんていうのか分からないけど、紙がぶらさがってるじゃないですか。


 

これを、この場所で見た日本人は、絶対思うはずなんです、『ここから先には入っちゃいけないんだ。』って。

 

注意書きや立札なんて一切ないけど、99%の日本人は入らないと思う。

 

もっというと、その紐から先に入っちゃいけないと思える人だったら、多分この空間が凄まじく神聖な場所だと感じられると思うんだよね。

 

なんか言葉でうまく説明できない自分の文章力がもどかしいけど、この感覚は現代に生きる日本人がちょっと失いだしてるような気がするんだよね。

 

なんというか、多くのことにおいて『過多』な気がするし、現実に照らし合わせると『過多』でないと成り立たなくなってきてしまっているのか。

 

街中でも『そこまで書かないといけない?』っていうような立て看板が多いじゃない。

 

テレビやyoutubeも、どの番組見ても字幕・キャプションばっかりじゃないですか。

 

せっかく素晴らしい題材と映像のドキュメンタリーでも、日本のそれは何故か『説明』に終始した声のナレーションがずーっと入ってるし。

 

この空間は、そんな『過多』な現代に対してのアンチテーゼみたいに感じられたな。


『あなたたち、一切の装飾を外した本質のみに触れても、ちゃんと感じとれるでしょ?』

 

って。


もし人がうじゃうじゃしてたら、、また違った感じだったかもしれないけど、本当いいタイミングでこの場所に来れて、そして感じられて良かった。

 

真面目に感動しました、山口大神宮。

 

因みに、外宮・内宮と言えば、伊勢神宮が思い当たる人がほとんどだと思うけど、それもそのはず。


 

なるほど、、、正に直系。

 

久しぶりに神社でドスンとやられたな。