それでは、どれだけの人がこの郡山城に興味があるのかもはや謎だが、毛利元就公の居城について。

 

歴史民族博物館を出てすぐ、三本の矢で有名な『三矢の訓』なるものがあるみたいなので寄ってみました。


 

毛利元就公が息子たちに伝えた一本の矢では脆くとも三本束ねればうんちゃらかんちゃら、・・・ってやつ、皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。

 

矢印通りに進むと・・・


 

まじで?(笑)

 

こちらからお入りください。ってなってるけど、結構斬新なんですけど・・・流石に一瞬躊躇したよ。

 

中は普通に学校のグランドで、


 

校庭の端に『三矢の訓』はありました。


 

セレクト・ショップのUnited Arrowsは直訳すると、束ねられた矢。

 

この『三本の矢』の話を聞くと、United Arrowsさんのことを思います。

 

確か『束矢会』だったか『束矢商店』だったか失念したけど、そういう名前の活動もされてるよね。


重松名誉会長もここに来られたことはあるんだろうか?

 

そんなこんなで先に進みます。


 

因みに毛利元就公は恐らく中国地方ではたいそうなリスペクトを受けてはいると思うけど、全国的にみてもかなり凄い戦国大名です。

 

何せ一代で中国地方を一気に納めたからね。

 

関ヶ原の戦いも、東軍の総大将は徳川家康と知られているけど、西軍の総大将は?と聞かれたら、ほとんどの一般人は石田三成と答えるんじゃないでしょうか?

 

正解は当時五大老で毛利元就の孫、毛利輝元が西軍の総大将です。

 

石田三成は五大老の下の実務職・五奉行で当時は確か蟄居中だったと思います。

 

それに石田三成自身も石高や『格』からして、自分が総大将というリーダーにはなり得ないことは分かっていたのでしょう。

 

なので、関ヶ原の戦いに一大名として参戦はしているけど、『戦い』において全軍の指揮は取ってないからね。

 

逆に言うと、このある意味自分の器をわきまえることができた能力によって参謀としての動きがあったから、開戦するまでどっちが勝つか分からない天下分け目の戦いにまで持っていけたのだと個人的には思います。

 

もし、石田三成が最初から『俺が俺が』で総大将になっていたら西軍には全然人が集まらず、恐らく関ヶ原の戦いは起きていなかったんじゃないのかなぁ。


 

それでは、ここからが郡山城の表玄関、いざ参ります。


 

まずこの参道を進むと見えてくるのが、毛利元就の墓。


 

墓地内には『一日一力一心』の石碑がありました。


 

説明によると『百万一心』の文字を分解して、と。

 

そして元就公のお墓。



 

南無。

 

で、お墓の横、ちょっと分かりにくい場所にあるここからが郡山城の登山の始まり。


 

最初は石畳で楽チンチンだったけど、


 

すぐに山道(泣)


 

途中、チラチラと火山灰のような粉雪が舞い出してきてあまりにも幻想的だったので、しばしボケーっと突っ立ってその時間を楽しむ。

 

今年、大晦日にして初雪かな?

 

都内は昨日まで確か雪はこの冬降ってなかったよね。

 

因みに、僕は佐賀県といっても長崎との県境の町だったので子供の頃は雲仙普賢岳の火山灰がリアルに降ってきてた地域なんだけど、ほとんどの人は『火山灰のような』と言われても分からないよね。

 

なんだろうねぇ、真面目に書くとおっさんのフケが空からキラキラと光りながら降ってくる感じかな、リアルに。

 

20分くらい登ってやっとこさ、本丸到着。



 

隣に小高い丘があったので、天守跡?と思っていったら、


 

こっちも本丸跡の石碑かい!ここまで登らせやがって・・・

 

因みにこの本丸に来るまで誰一人とも合わなかったんだけど、本丸には三脚を使いながら何度も孤独にセルフィーをしてるおっさんが一人いました・・・。

 

大晦日なのに、何をしているんでしょうか?

 

恐らく相手も同じことを僕に対して思っただろうけど。

 

大晦日、お互いご苦労さまです。

 

なんだろうね、名古屋城とか金沢城とか市内にある平城には若いカップルとかそれこそ女性とかも全然いるんだけど、これが地方の山城になるとその類の人種を一切見かけず、いるのはいつも独りのおっさんばっかりです。

 

結論 : おっさんは山城が好き。