今回の週末で司馬遼太郎さんの『関ヶ原・中』を読み終わる。
 
今夜から風呂に浸かりながらでも『下』に読みかかろうかと思う。
 
上・中と読み終わって、未だ関ヶ原の合戦は始まらないとゆう大作具合。
 
先日youtubeをザッピンしてて、なんかのニュース番組で苫米地さんがコメンテイターとして仮想通貨に関して話してたんだけど、ちょうど読んでた『関ヶ原』とオーバーラップした。
 
まさに石田三成さんって、現代でゆうと苫米地さんみたいな感じなんだろうな、って。
 
因みに、個人的には僕は苫米地さんが好きなんだけどね。
 
これはちょっと難しい感情なんだけど、苫米地さん自身が好きってゆうか、あの人の世間に対するスタンスとゆうか、自然に接してるんだろうけど、どうしても斜に構えているように見えてしまう、要するにあの人は頭脳がネクスト・レベルすぎて僕らにはそうゆう風に見えてしまうんだろう、そんな雰囲気みたいなもんが好きだね。
 
苫米地さんのあの『いつか犯罪を犯すんじゃないか、この人?』感のあるキレ味、最高だね。
 
この関ヶ原を読んでてちょっと勉強になったのが、この時代の『友情』や『儒教観』みたいなものについての考察だね。
 
ここら辺の解説を差し込んでくれると、現代に生きる自分たちとの思考のギャップを埋めてもらえて、作品を理解するのに非常の役立つよな。
 
例えば、そうだな、三国志のオリジナルの話には、戦に敗れて一人逃げる劉備を匿ってあげる男の話があるんだけど、この男は空腹の劉備の為に自分の奥さんを殺してその肢体を劉備に食べさせて、曰く『この男は、なんて素晴らしい男なんだ!』って話があるのよ。
 
今の感覚からしたら、ありえなくない?
 
ただ、当時の感覚からしたら、これは真っ当なことらしいんだな。
 
こうゆうことを垣間見るとだね、日本の、例えば自分が好きな新選組しかり、いろんな歴史的事象をベースにした物語が作品としてあるけど、ほとんどは現代に生きる自分たちの一般的な常識とういうか感覚にうまく落ちるように折り合いをつけられて作られている作品なんだろうな、と思うね。
 
勇猛果敢な荒くれ武者なんて、時代小説で読めばカッコイイ響きだけど、そんな武者が現代に生きてたら。。。どう考えても社会にフィットできないでしょ。
 
 
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