人類最大級の危機の一つは火山の噴火ですが、縄文時代中期以降に繰り返し起こった富士山の噴火の影響が最新の研究で徐々に明らかになってきています。

 

1.信濃川、千曲川ルートからやってきた人々

2.南関東人とのコラボによる中部高地での縄文のビーナスの誕生

3.南関東人の西日本への移動

4.後の弥生文化の浸透や全国統一事業への貢献

5.南関東の開発に成功した出雲族

6.頼朝の人事にまで影響

 

1.信濃川、千曲川ルートからやってきた人々

 5,500~5,000年前に新潟県糸魚川市へ翡翠を求めてやってきたグループについては以前も書きましたが、5,000年前に新潟県長岡市辺りで火焔式土器を開発しながら信濃川、千曲川を遡り佐久郡や分水嶺を越えて天竜川流域の伊那郡や諏訪郡、県境を越えて山梨県の中部高地までやってきたグループがいました。

 

2.南関東人とのコラボによる中部高地での縄文のビーナスの誕生

 彼らは焼町式土器などを完成させながら中部高地の茅野市、富士見町、山梨県韮崎市辺りで5,000~3,500年前に縄文のビーナスなどの縄文時代を代表する土偶を作りましたが、これらのデザインには5,500~5,000年前に神奈川県から相模川、桂川を遡って富士吉田市近くまでやってきた謎多き勝坂式土器のグループとのコラボの影響があったようです。

 

南アルプス市で発掘された勝坂式土器

 

 彼らとのコラボは富士山の噴火による大量の降灰を避けて南関東から中部高原に逃げてきた避難民を受け入れたことから始まったとの説もあります。同様に南関東から移動した人と長岡方面からやってきた人の接触は栃木県や茨城県の北部でも起こっていますが、こちらではコラボはあまり発生せず棲み分けていたようです。現在の北関東の棚田の分布とほぼ一致します。

 

3.南関東人の西日本への移動

 4,200年前に始まる地球の再寒冷化と相次ぐ富士山等の噴火による大量の降灰で南関東の人口は9割以上減少し一部は西日本へ移動したとの有力な説があります。勝坂式等の南関東の土器の製作集団の一部には中部高地から天竜川を南に下り、峠を越えて濃尾平野の北を通り滋賀県を通って若狭や京丹後、兵庫県の但馬、鳥取の海岸を経由して出雲まで達したものもいたようです。福岡県の玄海灘の沿岸にも同族がいて交流もあったようです。

 後に出雲族とJVを作る八上姫や櫛稲田姫の一族は岡山県方面から分水嶺を越えてやってきたようです。

 

4.後の弥生文化の浸透や全国統一事業への貢献

 このように土器の製作法は北は北海道の礼文島から知床半島近くまで、南は沖縄まで全国に普及しました。このネットワークは後の弥生文化のスピーディーな浸透やヤマト王朝による全国統一にも大いに威力を発揮しました。

 

5.南関東の開発に成功した出雲族

 富士山等の火山灰が厚く蓄積した関東ローム層は水田を作ろうとすると火山灰に含まれたリン酸が化合物になり極端な肥料不足になることから、弥生人も避けて通り弥生人の水田遺跡はほとんど発見されていません。

 縄文人の人口が9割減となり弥生人も避けて通った南関東で水田の開発に成功したのは約2,000年前にやってきた出雲族でした。弥生人も乾田の技術も持っていましたが、出雲族は金属製の農具等で水を落とした水田を田起こしして空気と大量の堆肥を鋤込むことで肥料不足を解消しました。

 厚い関東ローム層に覆われた南関東では現在でも陶土を探すのは困難で、縄文時代の粘土の採取場も川崎市犬蔵や多摩ニュータウンの崖地を掘った場所がわずかにあるのみです。畿内にヤマト王朝が成立すると関東地方にも土師器、埴輪作りの職人が送り込まれますが、そのほとんどは陶土のある埼玉県や群馬県でした。

 

6.頼朝の人事にまで影響

 ちなみに頼朝に守護地頭の設置を進言した大江広元は菅原道真と同様ヤマト王朝に送り込まれた土師氏の末裔で彼らを受け入れたグループについての理解も深かったようです、頼朝の地頭配置の人事にも影響を及ぼしており、彼らのそれぞれの土地への深い思い入れは現代日本にまで反映されているはずで興味が尽きないですね。