時々、
「今なら息子に言葉が染みそうだな」と感じるタイミングがある。
時々息子にする説法。
説法と言ってよいものかわからないけど、とにかく色々伝える。
寝る前がわりと多い。
この時間はわりと聞く耳を持つ事が多い。
だから、説法?が始まると丑三つ時にまで至ったり…なんて時もある。
夜更かしは良くないけど、伝えるタイミングって大事だと思う。
私は一般に言う高学歴ではない。
勉強…今ならそこまで嫌いじゃないし、
やればそこそこのレベルまで多分いけると思う。
でも、
学生の時には高学歴とはいえなかった。通っていた高校の、成績順で決まる進学クラスには居たけれど、ちんぷんかんぷんだった。
数学は、高校の時に面白いかも…と、
わりと好きになって今その数学的な考え方が大いに役立っているから有り難い。
人としての経験はそこそこしてきたつもりで、そこから得た事も多々ある。気のせいではない…はず?
特に現状になった事は、この上なく辛くどうしようもなく、奈落の底に突き落とされたような経験で、
人間というものがどういうものであるのかという事を突きつけられた。
世の当たり前、決めつけ、忖度………、
もうしょーもないな…と。
あらゆる事が変わらざるを得ず、
諦めざるを得ず…思考も視点も変わった。
そして、
人間が人間である以上、どうにもならないな…と感じた。
そんな世でこれからやっていかないとならない子供達。
私が過ごしてきたよりも更に厳しい状況になると思う。
本当に、昔は良かったと思う。
ある意味めちゃくちゃだった所もあったと思うし。
何か出来ない事があっても配慮されるとも限らず、どうにかやっていかないとならない…。
その方法は伝えておきたいなと思うと説法?にも熱が入る。
息子は認知の歪みが強そうだし、
◯◯がないと◯◯出来ない…みたいな思い込みもありそうで、
こういう時はこう対応する…という柔軟さを身に着けていけるのかが私としては不安なのだ。
子供の頃から臨機応変は難しいまでも、この先それを体得していけるのかな…と。
思考の入り口がそもそもまずそうだな…と感じてしまう…。
考えた方次第で行き着く先はかなり違うものになると思うから、
決めつけや世の当たり前は邪魔な壁となると私は感じている。
人間同士の兼ね合いもあるけど、
故意な迷惑や犯罪に当たらないならば、そこそこの兼ね合いを考えた上で自分軸で考えてやってみていいと私は思う。
例えば、年甲斐もないとか、
◯歳だからとか、
そういう目に見えるもので決めつけるのも何だか稚拙過ぎるような…。
時間は有限、
わりとあっという間に棺桶に近づいていくもの。
体力や機能的に期限がある事もあるし、ボーっとしていられないのだ。
世の偏った、正しいかも定かでない
当たり前とされている事に振り回され、決めつけで留まっていたら、
手にできる事も逃してしまうかもしれない。
考え方など…を息子に伝えている。
息子にわかりやすく例えて。
じゃあこれは?という聞かれ方もするけど、それでも負けない。
こう思うけどね?と伝える。
娘も息子も中途障害者となった私の
背中を見て育ってきた。
息子にとっては、中途障害者としての私の方が自然である事が何とも言えないけど…。
障害者で出来ない事が山のようになってしまったけど、それでもただでは転んだままにならないで進む私を見てきているから、
説法?をしても、ただ反抗心から歯向かってくる事はない。
時々ムカッとはされるけど
同じ事を父親に言われたとしても、
全然説得力もクソもない。
また棚上げして言ってきたよ…となるのは目に見える。
だから、日頃の行いは大切で、
そこそこ真面目にやっていれば、
自分を助ける事にもなるのだよとも伝える。
伝わったかな。
伝わっているといいな。
生を終えるまでに、私の経験からの言葉を伝えていくつもりだ。
それが子供達の役に立つと良いな。