障害者になってあらゆる事が変わった。変わらざるを得なかった。


身体機能を失ってそれが気合いや努力ではどうにもならない事で、

本当にどうあってもどうにもならない事がわかった事で、


あぁ、自分はそうだったのかも…と

思った事がある。


それは、何かしら壁を作っていたのって自分自身だったんだなという事。


こうなる前の身体では、

やろうと思えば出来なくはないけど、

疲れる事だったり手間だったり大変だったりで正直したくなくて、


その出来ない理由を何かしら探して「しない」「出来ない」という事にする場面があったと思う。


あの場所には遠いから中々行けないとか、行きたいけど忙しいから行けないとか、色々な場面で“しようと思えば出来る状況”にあったのだな…と今では思う。

でも、する事を選択しなかった。

その為の理由を探してあてはめた。


この、出来るけどしないという事は

身体が自由に動けば可能で当たり前に思えてしまう事だけど、


身体が自由に動かせないという、

機能を失う事になってしまったら、

したいけど出来ないという事になってしまう。


だから、機能を失ってしまった私は、

出来ない理由を探してしなかった過去の自分を贅沢に思うし、

勿体なくも感じてしまう。

色々な可能性があっただろうに、

その可能性を選択しないという選択をしてきたのだなぁ…と。


そんな過去の自分も自分だし、

その時そう判断したのだから仕方ないけど、本当に出来なく不可能になってしまうと…勿体なかったねぇ…と思ってしまう。


機能を失った身体では、

したい事をしたい時に自分のタイミングでする事は難しいし無理な事がどうしてもある。


したくても状況的に出来なかったり、

気持ちだけではどうにもならなかったり…。

もどかしさやら悔しさやらでお腹一杯になれるし、それがずーーっと続く。


誰しもがそれを感じるとしたら、

高齢者になった時かな。


色々チャレンジしてみれば良かったのにねぇ…と思うけど、人間本当にその立場に立たないとわからないもんなんだね…とも思うから、なんとも言えない。


あとは、“自分は◯◯だから”とか決めつけて壁を作ってしまったりも勿体なかったのだな…と今では思う。

相手に対してもそう。

こういうキャラだから合わない…とか。


それこそ、スキップとローファーを観ると「人と人ってそういう事で壁を作るもんじゃなくない?」と思うし、

勿体ないなぁ…と思う。


取り繕われたもので人は繋がらないんだよな…と。


人と人の間に垣根を作るのも、

その垣根を飛び越えるのもまた人なんだなぁ…とも思ったり。


何か大切な事が薄れていっているような気がする現代。

全部が…全体的に薄っぺらくなってきているような。


人情とか思いやりとか、

わからなくならないで欲しい。


わからなくなったら本当に終わるだろうし、

でも、もう充分そこに向かっている気がする。