障害者になる前に出来ていた事への執着…かな?
過去は変えられないけど、
過去では確かに出来ていた事が、
障害によって出来なくなったという現実を受け入れたくないような気持ちがあるのかな…。
仕方ない事なのに、それを情けなく感じてしまうような。
その感情を持つ事自体が自分に申し訳ないような。
なんか、国風みたいなのもある気がする。上っ面しか見ないでそれが重視されてしまうから。
それがしっかり自分にも刷り込まれていて、情けないとかそんな風に自然と思ってしまう所が自分でもコワイ。
とは言っても、出来ていた時に執着していたら進めないし何も出来なくて。
価値観がおかしかった事に気づけていなかった初期は、無理矢理諦めていった。
出来ない事を出来ないと認める悔しさみたいなものがあった。
でも、価値観が正されてくると、
出来ない事を出来ないと認めて己の力量を知り、その上でどう物事を采配するのか…それこそが大人なのだなとわかった。
出来ない事ならその部分は出来る人に頼むなりして…目的をいかに、どう達成させるか…。
出来る事はする。
出来ない事なら頼む。
そんなシンプルな事に、これまで抵抗感があったというか。
それも国風のようなものだと感じる。
出来ない事は助けて貰えばいいし、
助けて貰ったら、自分が出来る事の時にその恩を返せばいい…。
ここは、助けて貰う=迷惑
だから、皆苦しむのではないかと思う。
そうじゃなくて。
出来なきゃ助けて貰えばいいんだよ。
出来ないのに出来る❗️とイキるのは若くて何もわかっていない若者や物事がよくわかっていない子供のする事。
大人こそ、それこそ
使える物や状況、人脈、あらゆる事を駆使して、出来ない事をする為に使えばいいんだ。
それが大人でしょう。
それだって、これまでの積み重ねで培ってきた縁だもの。
ちょっとやそっとで手に入るものじゃない。
大事に温めてきた関係あってこそだろうし。
今ある価値観、どうなの?と私は思う。
それ、本当に大丈夫な価値観?と。
よくわからない先入観とか、
惰性とか風習とか…情報社会になって
色々な事を知る機会もあって、
Instagram等をみていると、
え?そんなおかしな事がずっと続いていたの?と驚くような、愕然とする事が多いし、目を覆いたくなるような事ばかりだし、
これまでの事を現代にそのまま当てはめておくことの危うさを感じる…のは私だけなのか…。
発達障害大国とか言うなら、
あらゆる事を変えないとならないだろうし…何だか色々末恐ろしい。
あ、結局内容が脱線しちゃった
いつもこうだよ…
私のブログは長いっ