小さな頃からよく聞くフレーズ。
“人に迷惑をかけたらダメ”
これ、逆に苦しめられている気がするのは私だけなのだろうか。
迷惑…ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快を感じたりすること。
うーん…なんか受け止め方の違いなのかなという気もしてしまうけど、
なんでもかんでも【迷惑】になってしまっているような気がする。
迷惑=人に何かして貰う事
みたいな解釈な気がして。
だから、必要な配慮までもが迷惑になってしまうような。
例えば、高齢者への配慮…歳を重ねれば身体機能は衰えていくのは誰もが必ず経験する事なのに、
その立場ではないから想像すら出来なくて、先々自分も必ず同じ事になるのに、それでも無理を強いているような、状況改善をしようともしていないような事もあるのではと思う。
免許の返納にしても、そうなのかなと。
気持ちでは危ないとわかっていても、
返納してしまえば車は使えなくなる…。
実際、車を使っていた人がそれを手離すのは凄く大変な事。
物理的に無理矢理なくしてしまえば済む事だけど、まず気持ちがついていかないし、現実的に移動や買い物が大変になってしまう。
私がクッ…………💢と思ったのは、
オーブンレンジを買った時の事。
下取り○○円!が、お店に持ち込むスタイルだったから。
これ、無理だろ車がなきゃ。
車があっても、オーブンレンジは重いからどっちにしても難しいじゃないか💢と思った事があった。
だってバスじゃ無理だし、わざわざタクシー使うとかないだろう。
頼める親戚でも居れば可能かもしれないけど、居るとも限らない。
頼む煩わしさも、
それこそ迷惑も考えてしまう。
そんな、色々な事も手離さなければならなくなる。
だから想像以上に、
出来ていた事が出来なくなってしまうのが免許返納だったりする。
じゃあ、それを解消すればもう少し免許返納も進むのだろうけど、
世の中最盛期世代にしか目を向けないから、一向に改善されないまま。
そして、最盛期世代が高齢期になり、
え?こんなに大変なの?と思った頃にはもう遅い…意見なんて吸い上げられない世代になってから改善しようったって、
時既に遅し。
そして、それの繰り返しで負の無限♾️ループなのでは…と思う。
必要な配慮が迷惑にカテゴリ分けされていなければ、もっと頼みやすいだろうに。
“人間1人では生きられない”とかいう言葉も聞くけど、矛盾じゃないか。
1人では生きられないのだから、
必要な時は助けて貰えばいいのだし。
それで、何かで返せるならその時に助け返せばいいのだし。
お互い様って死語なの?
迷惑で何でも括るから、
1人で抱え込んで自殺してしまったり、
余計に苦しんだりするんじゃないのかな。
ちょっと助けて、手を貸して…と言えたらかなり違うのに。
なんか、凄くおかしいと思う。
自分に出来る事、出来ない事をきちんとわかっていて、出来る事はきっかりして、出来ない事は出来る人に任せるなり、出来る方向で調整をする…それが本当の大人だと思う。
若い頃って何でも自分で出来る事が大人とか思ってしまう気がするけど、
それって若さゆえのイキリというか、
無鉄砲というか。
きちんと自己理解出来なくて、己の力量も計れない…みたいで、やっぱりそれが若さなのかなと中年になると思ったりする。
私は障害を負って、否が応でも出来ない事を自覚する事になったから、
逆に楽だったのかもしれない。
障害はどうしようもない事で、
どうあがいたってしたくても出来る事ではないから。
出来ない事を認めるのは難しい。
それが出来て、
出来ない部分の埋め合わせをじゃあどうするか…それをどうにか出来るのが本当の大人なのだなぁ…と身をもって知ったというか。
だから、
助けて!手を貸して!は、むしろ賢いと思うようになったし、それは迷惑ではないのだと思った。
常に“助けて!”じゃなくて、本当に大変な時しか頼らないのが基本だけど。
赤ん坊の世話を迷惑と思うのか…?というのが1番わかりやすい例えかなと思う。
必要な配慮を自然としている=世話なのでは。
親は迷惑だと思って甲斐甲斐しく世話をしている訳ではない。
その時の赤ん坊の状態に合わせて必要な事をしている…
これを他の世代、
他の状況の人にも当てはめれば、
迷惑とは受け止めないのでは。
「必要な配慮だよね」と皆が思えれば、全然違うのに。と思う。
今って、
高齢者や障害者に現役バスケットボール選手と同じようにプレーしろと強要されているような世の中だと思う。
少数派の事はないがしろにするし。
ただ自分が該当していないだけなのに、
想像力のない事よ…と嘆かわしくなる。
自分が該当していたら、大騒ぎするくせに。
【迷惑】の解釈。
それは違うよって知ったら、
少しは優しい世になるかな。
手遅れかな。