原作:伊坂幸太郎
脚本:和田憲明
演出:ラサール石井
2011年10月3日
世田谷パブリックシアター
あらすじ
会社を辞め、何となくコンビニ強盗をしてしまった伊藤は、連行される途中で事故に遭い、
気がつくと荻島、という島にいた。
日本の島であるものの江戸時代から鎖国をしているというその島には、未来を予知できるかかし、本当のことと逆のことしかしゃべらない画科・園山、島で“罰”として生き、殺人を許されている男・桜など、伊藤の常識では考えられない奇妙な人々が暮らしていた。
日々野という男の案内のもと、伊藤は荻島で暮らし始める。
敢えて原作を全く読まないで行ったが、これが全くの大失敗だった。
大変な長編を2時間に纏めているせいで、端折られてすぎていた。
これはよくある話だが、“不思議な島に住む不思議な人々の中でおきる不思議な出来事”を作り出そうとして、その不思議空間を訪れた伊藤がその空間に違和感を感じる時間があまりにも少ないのだ。“不思議さ”にあまりに上演中の世界が当然のものとして広げられていた。
その場にいたら突っ込みたくなるであろう数々の理解不能な部分に何も触れず、結果、
その違和感が気になって先を観る気がまったく起きなくなってしまった。
そして、河原雅彦演じる日々野の存在が全く意味がわからなかった。
屈託なく伊藤に荻島の常識を教え、案内していくのだが、正直いい歳こいたオッサンが、
なぜ働きもせず少年の様に無邪気に振る舞い島に新しく来た男に四六時中優しく接するするのかがわからなかった。また、例えば玉置玲央が“荻島の法とされ殺人を行う“桜と”“警察官として法を振りかざす”城山をーといった、対照的なキャラクター2人を1人で演じているのだが、最初からそのキャラクターを知らない人間からすると、まず一目みたときから混乱し、その理由について必死で探ってしまう。そして、終演後パンフレットを立ち読みしたら“演出的に面白いから・作品の解釈として”という意味だけだったことを知り、がっかりするした。
。
そして、違和感を感じる、しかし美しい島、という姿が何もイメージできない舞台美術。
生成の布を上から垂らし舞台面を覆い
出演者はその布の切れ目をかき分けて舞台上に出てくる。
必ずその動作が入るので、何か大きなテントの様に見えてしまい、
自然の感じも・建物の質感も何も感じられなかった。はっきり言ってあの美術にした意味が全くわからない。
以上の理由で、私は全く理解できず、憮然として帰ったのだが、
落ち着いて思い返してみれば、劇場内の他のお客様たちは、「伊坂作品他に何読んだー?」や「伊坂幸太郎はー…」といった伊坂作品は読んでいることは当然、という前提のもとの話をしていたのを思い出した。
そうか、私が悪かったのか。と反省し、後日、原作を読んでみた。
なるほど小説上のキャラクターは、くどい描写が必要ないくらい、魅力的で、
「これを実写でやったらどんな人があうだろう?どんな人が素敵だろう?」と思う様な作品だった
そういう意味で舞台「オーデュボンの祈り」は、きっと「誰が誰をどんな風に演じるか」が当然の一番の魅力であり。
今や「伊坂作品は読んでいて当たり前」なんだなあ。と知った。
反省した。