今、僕たちがしなければならないことは、あの時喪った国民を回復すること。

軍服を来て靖国神社に参拝することでも、黒塗りに日の丸の街宣車で霞ヶ関や国会周辺を五月蝿く俳諧することでもない。

非戦を掲げて集会をすることでもなく、護憲か改憲か左か右か似た者同士が自己満足の集いをすることでもない。

あの時、今の日本を存続させるために犠牲にした数百万人の日本人を元の場所に帰すこと。

そのための具体的な行動だ。

これが実現できて初めてあの戦争の未処理問題の端緒につくことができるに違いない。

偉そうに書いているが、百万を超える先人たちが今なお未帰還でいることを僕が知ったのは5年前。恥ずかしいことだが、それまで本当に何も知らなかった。憲法9条や靖国参拝問題に関する新聞記事や雑誌を読んでわかった気になっていただけだ。

出来るための方法論を考えること。
実際に行動してみること。
何だっていい。

この夏、自分に出来ることから始めてみませんか?
先の大戦から65年。

僕たちは忘れない。
あなたたちが命を懸けて戦ってくれたことを。

僕たちは行動する。
一刻でも早い帰還を目指して。

僕たちは約束する。
情報がある限り最後の一人まで収容することを。

僕たちは信じる。
この活動が日本を救う唯一の方法だと。

僕たちは実現する。
真に豊かな国を。
今夜、空襲被災者の補償制度についての特集があった。番組の方向性としては日政府が個別的なものも含めて補償すべきというものだった。そんな中、解説員が『本当なら加害者の側に、アメリカに補償要求すればいいんですけど戦争だから、そんなことできないですよね』と発言していた。まったくその通りだと感じた。国と国が話し合いで解決できないから武力を以って決着を付けるという行為が戦争なのだから。個人として深手を負った方々の苦労や人生の辛さにはいたたまれないものを感じる。ただし、日本政府に要求すべきものなのか。なぜアメリカに要求しないのか。逆に韓国から日本に対して補償要求出されたときに、この解説員には同じように『戦争なのだから個別に補償などできないのだ』と言い切ってほしい。ダブルスタンダードというのはやっぱり良くない。とは思うものの、日本政府に補償要求を続けてきた被災者の人達がその対応に憤りを感じ冷たく理不尽な扱いを受けたことは、今戦没者遺骨収集をしながら政府と交渉する場に立ち会う中で僕が感じている感覚と同じだと思う。国に頼るなんてことはしたくないが、このような国?政府?の存在を許しているのも私たち国民だ。その一人としてこんな国を変えていきたいと痛切に感じます。日韓併合100年談話とか図書を引き渡すとか瑣末なことですよね。

今回は、日記ではなく、僕の活動しているNPOイベントのご案内です。


8/14から16の3日間、東京で御遺骨収集の現状についての写真展示および映像上映会を一般の方を

対象に開催いたします。私も説明員として参加しております。

近くにお越しの際は、お気軽にお越し下さい。

遺骨ってなに?
空援隊ってなに?

そんな疑問に丁寧に答えます。
知り合い同士でも、お友達同士でもOK☆

■日時:平成22年8月14日から16日までの3日間(毎日10時~17時) 入場無料

■場所:空援隊東京本部(英守ビル5F)  東京都中央区日本橋富沢町11-6 

     (都営浅草線:東日本橋、メトロ日比谷線:小伝馬町、都営新宿線:馬喰横山、JR総武線:馬喰町)

■対象:会員および一般の方(無料)

■展示内容  
    1.フィリピン現地における活動映像
    2.写真および資料展示
     (御遺骨収集の現状、当隊収集モデル、政府収容数推移と当隊収容実績、御遺骨帰還の流れ、

      現状の喫緊課題、 フィリピン概要、空援隊概要、現地活動写真など)
    3.空援隊収集団参加者との対話コーナー

参考 http://www.kuuentai.jp/news.html

先週は出張のためブログ更できませんでした。
さてさて、今回は、にっしー小学3年生のお話です。


小学校の通信簿。
皆さんのときは、どのような評価方法でしたか。
私の通った所は「良くできる」「できる」「努力しよう」の3段階で、国語、算数、理科、社会、体育など

科目ごとに合計30項目程ありました。成績なんてほとんど覚えていませんが、「良くできる」が

非常に少なかった事だけは、明確に覚えています。

そんな小学3年生1学期の成績は、
「良くできる」=3個、「できる」=25個、「努力しよう=3個」。


・・・・・・


この事態を重く見た母方の祖父


(祖父)東京ドーム行きたくないか?


(にっしー)え?どういうこと?


(祖父)良くできるを10個取ったら、十(とう)やから、阪神-巨人戦を東京ドーム連れてったる。


祖父も父も寅年生まれの関西人の子供。当然阪神ファンです。
野球好きだった私は、阪神-巨人線には目がありません。
しかも全天候型ドームとしてかっこいい憧れの東京ドーム!

私は、この約束に飛びついたのでした。

そして2学期が終了。成績は「良くできる」11個。
な、何とか、クリア!!


すると祖父は

(祖父)ほな3学期も10個取ってみ。ほんなら連れてったる。


3学期は「良くできる」12個。。。ま、クリアです!
勉強嫌いなもんで成績なんて必要以上伸びる訳がありません。

とにかく、これで約束を果たしました。


「今年の夏は、新幹線に乗って東京に行くんや~♪と思っていたら


(祖父)東京ドーム1回と甲子園3回とどっちがええ?


(にっしー)え?どういうこと?


(祖父)東京ドームやったら1回だけや。甲子園やったら近いし3回連れてったる。


・・・・・・


そんな選択肢聞いてないよ!


東京は遠いし、金もかかるし、人も多い。

甲子園3回にした方がコストは安い。
と祖父は、考えたに違いありません。


ここは長男として調整型の弱みでもあるかなぁ。

結局、我ままをいうよりも、甲子園3回を選んだのでした。

今なら即答で、「1回でいいから東京ドーム!」なんですが。。。
約束通り、甲子園には3回連れて行ってもらいましたけどねん。

そら、安上がりですよね~(笑)



<次回予告>

にっしー、いじめに遭う!?




昨日までのブログをお読みいただいた皆さん、ありがとうございます。

はじめてなので、これからも色々とアドバイをいただけたら幸いです。




さて、1986年春、脱サラをした親父の「たこ焼屋」という第二の人生がスタートしました。

母にとっても、まったく初めての自営業。既に紹介しましたが、母方の祖父は厳しくて、頑固、怖いし、短気。

大事な箱入り娘は、一部上場企業の社員の嫁にやって2人の孫もいる。母の兄も奥さんをもらっていたので、

何も心配することはない。定年したら、悠々自適で老後は安泰!祖母ちゃんも同じように考えていました。



で、そんな祖父ちゃんには、退職したことを告げていなかった父。

「T子さんを下さい。幸せにします!」って宣言して、わずか6年。

母も祖父の性格をわかっているので、オープン直前に話したそうです。

寝耳に水の祖父ちゃん一家は、鳩の豆鉄砲状態、

まだ20代の娘が、幼い子供を抱えて客商売。しかも売れるかどうかもわからん「たこ焼屋」を始めるなんて・・・

そんな祖父ちゃんに向かって母は、


「お父ちゃん、そんなこと言うたって、もう始めるんやからしゃーないやん。」


さすがO型。祖母譲りの楽天的な性格の母。そうです。成せばなる。

能天気な母だったから、我が家は、持ったのだと思っています。

多少人見知りする母ですが、あっさりしているのが良いところ。

こうして「たこ焼コックピット春木店」は、気圧の不安定なフライトも無事通過したのでした。


その年の夏休みは、毎日6時に起きてラジオ体操。その後、親父と詰将棋。

子供相手なのに、容赦ない大人気ない親父。一度も勝たせてもらったことはありません。

朝食後は、お勉強。学校の宿題以外に、親父が本屋で買ってきた国語、算数、理科のドリル。

要らんのに。勉強嫌いな奴だったので、無理やり。。。。。おかげで、学校の宿題は7月中に

すべてを終わらせる癖がつきました。一度身についたこの習慣は中学卒業まで続きました。

でも、自由研究と書道、ポスター、日記が残るのです。

特に日記なんて、毎日コツコツなんて、めんどくさい。

初日だけ書いて、あとは8月31日まで「昨日と同じ」でした。




そんなこんなで秋の稲刈りと岸和田だんじり祭。


うちの町のだんじりは 、これです。

岸和田市内の各町に1台ずつあります。総ケヤキ造りで、新調すると製作費1億~1億2千万円、

期間は5年ほど、重さ3~4トン、高さ3m弱。これを引っ張って、丸2日間走り回ります。

手前味噌で恐縮ですが、全国のどの祭よりもカッコいい!京都の祇園祭!?何それ?

ちなみに、親父は僕よりだんじり好きです。


秋になると、たこ焼を頑張りすぎたのか、親父の膝に水がたまるようになりました。

父方の祖母ちゃんが2日おきくらいに、夜、親父に灸を据えに来るようになりました。

うちの実家と親父の実家は同じ町内でちゃりで5分。

でもある日、祖母ちゃんは来ませんでした。

我が家に来る途中、狭い道を自転車と自転車ですれ違い、道路から2メートル下の田んぼに落ちたのです。

ぶつかった人間は、そのまま逃走。暗がりで発見が遅れるという最悪の事態。病院へ搬送されましたが、

首の骨が折れ、神経がやられたため首から下が不随に。かろうじて、両腕の上げ下げができるくらい。


こんな状況に祖母ちゃんは、


「わし、こんな辛気くさいところに長いこと居たない!家へ帰る。」


医者の反対を押し切り、周りの心配も聞き入れず1週間で退院。

そこからが伯父宅と我が家で、1カ月ごとに交代しながらの介護が始まりました。

食事のときに、ベッド上で半身を起します。

リハビリの効果もあって、手のひらに引っかけるスプーンがあれば口に運べるようになしました。

食事後、読書や読経のあとは、寝たきり。床ずれ防止のため2時間おきに、寝る姿勢を右下、左下に変えます。

毎朝お湯で温めたタオルで身体を拭きます。当然下の世話も。

週に一度は、介護施設の入浴サービス。リハビリと訪問介護。

親父は、自分のために来る途中の事故ということで、祖母が寝たきりになったことを

自分のせいだと悔んでいました。


私は、祖母ちゃん生きてるし、体は不自由だけど元気だし、賑やかでええっか♪と気楽でした。

ある日の夕方、宿題の漢字練習を終えた私は遊びまくっていました。

もう一つの「ハーモニカの練習」を除いて。。。。。

でも、正直良い子ちゃんの私に嘘はつけません。


(母) 宿題は済んだの? という問いに、目が泳ぎます。


(私) ハーモニカの練習があるけど、教室に忘れてきた。


本音は、めんどくさいから、まあいっか。持って帰らなかったら、練習せんでええし♪と置いてきたハーモニカ。

これを見抜いた親父は激怒!


(父)今からでも教室に取りに行って来い!


(私)え?もう7時過ぎてるし、門も閉まってるし。


(父)何でもええから取って来い。誰かに開けてもらえ!それまでは家に入れさせん!


なに?まだ晩飯も食べてへんのに?それはまずい。

泣きながら学校の門を乗り越えました。

夜の学校。怖いですよね・・・当時守衛さんはいませんでした。

で、結局中に入れず、手ぶらで帰宅。

玄関先には親父が・・・やば・・・


(父)あったか?


(私)それが、あの、その、ごにょごにょ・・・


(父)よし、待っとけ。布団だけ持たしたるから、お前はどっか行け。もう、うちの子とちゃう!


ま、まさかぁ。たかがハーモニカやん。

家の中に親父が入ったら、母ちゃんが出て来てくれるんやな。


あれ?ミッキーマウス自転車の荷台に、布団が括りつけられました。


(父)どこなと好きなとこ行け!


くっそー!本気でやりやがって。人生において初めて抱いた殺意。

おうおう、こんなんほんまの親父とちゃうわ!行ったるねんどこへでも!見とけよ!

漕ぎ始めたちゃりは重い・・・庭先を出ずに・・・転びます。


その後、母が出てきて助けてくれました。

親父は、祖母の身体のこともあり、より怒りやすくなっていたのでした。

今なら、その気持も理解できますが、当時は怖いだけでした。


忘れねーぜ、親父!


<次回予告>

「にっしー、東京ドームを目指す」


※出張のため明日以降更新が遅れるかも知れません。ご容赦を。

突然の親父の退職。

これにより、庭先のガレージを親父は、ごそごそっと改造しだしたのです。

小学1年生の私は、何が起こっているのか分かりません。


うちの実家の裏には、田んぼがありました。

元々は、父方の祖母のものですが、父の結婚を機に、祖母が父へ譲渡。

そのうち、約3分の1に山土を入れて平屋1階建ての家と庭、ガレージ謙倉庫が離れにありました。

田んぼでは、サラリーマンをしながら、自分たちの食べる分だけ米と野菜を作っていました。

毎年6月に田植えをし、9月10月に稲刈りと乾燥、脱穀の手伝いもしました。

「ヒル」、「カブトエビ」、骨さんロック♪の「ウニョウニョ」、「タニシ」、「小魚」、「カエル」、「ウシガエル」

「ザリガニ」、「バッタ」、「コオロギ」、「蓮華」、「ミツバチ」等、色んなもんを目にしながら遊びました。

伯父や親父がコンバインを使って脱穀するとき、噴き出すもみ殻に感動したのを覚えています。

野良仕事の休憩では、決まってロングの「UCC缶コーヒー」でした。うまいんだなコレが♪

たまに、コーラを飲みたいと言うと、「あれは骨が溶ける」と諭されました。


でも、従兄弟の家に行ったら、「三ツ矢サイダー」を酒屋からケースごと買っていて飲み放題でした。

サイダーも骨溶けるんちゃう?と思いつつ、飲めなくなるのが嫌だったので、何も言いませんでした。

瓶入りのサイダー懐かしいです。


精米前の米袋を玄関に積んだりするため、農家の造りになっているうちの玄関は広かった。

その他、採れた野菜や乾燥機(当時の洗濯機は2層でした)、精米した米や農具、梯子工具などの

物置として車庫と一緒に、倉庫スペースも建ててありました。


ある日を境に、そのガレージから車が出されて庭先に停まるようになりました。

ベニヤ板が運び込まれ、ガレージの中に仕切りができ始めます。

そんなある日の午後、足を踏み入れると、見たことのないおばさんと父、母、父方の伯父夫婦がいました。

初めて見るおばさんが、小さなガスボンベが繋がった鉄板の上で、汗を掻きながら親父を指導しています。

鉄板には、たくさんの穴が窪んでいました。

火を着け、油を引きます。香りづけのバターもさっと引きます。

天かす(関東では「揚げ玉」)を入れ、そこに黄色っぽい液体を上戸のようなもので流し込みます。

何かのぶつ切りと紅ショウガ、きざんだ青ネギを載せます。

しばらくして、盛り上がった回りの生地を千枚通しのようなもので一つ一つひっくり返していきます。

そして、全体に火が通ったら、発泡スチロールのトレイに乗せて、ソースを塗り、青のり、かつお節を振ります。

これが人生で初めて食べた「たこ焼」です。


そう、親父は「たこ焼」屋を始める決意をしたのです。

大阪千日前の道具屋筋で揃えた鉄板(4面、3面、3面)他道具一式とソース。

岸和田卸売市場から仕入れたトレーと爪楊枝、輪ゴム、ウグイス(緑色のトレーを包む紙)。

電灯看板、屋根のテント、シャッターには広告屋さんに頼んで作ってもらった統一したロゴ。

サラリーマン時代には、中古車(バイオレット、カローラ)しか買ったことがなかった親父が、

奮発して新車(三菱ミニキャブ軽四)を購入。両サイドと後部ガラスにも統一のロゴ入り。

シャッターを開ければ、歩道に面したカウンター、待ってもらうための椅子2脚。

白シャツにネクタイを締め、白帽にブルーのエプロン姿の親父。

白シャツにエプロンを付け、ピンクのエプロン姿の母。

開店前には、広告をうち、「出前もするたこ焼屋さん」として記事掲載。


脱サラから4か月。


1986年4月17日「たこ焼コックピット春木店」、大空へテイクオフ♪


コックピットとは、飛行機の操縦席に由来しています。親父は工学部出身のエンジニアです。

近視のため憧れたパイロットになれなかったから名付けたとも、

店内が操縦席のように狭いことから名付けたとも言っています。

春木とは地元の地名です。ちなみに、本店以外お店はありません。


親父に聞いたら「チェーン店みたいやろ?」


え?父ちゃん、それって嘘つきやん!


「ちっちっち、他にも店があるように見えてその方が楽しいしな。お前には遊び心がわからんな。」


え?何が?


という訳で、800円以上の電話注文は、冷めない範囲ならスーパーカブ、近所ならちゃりんこで配達。

店先に面した歩道は、地下に水道管が通っていて、他の歩道よりも幅が3倍程広い。

ちゃりんこも止めやすく、歩いて300mの範囲に中学校1つ、小学校2つ、幼稚園3つ、保育所3つ。

清潔な服装と配達というサービスも受けて繁盛!

味も他の店よりも、確かに美味かった!

作り方・・・それは企業秘密だそうです。(知ってるけどねん~♪)


なにはともあれ、近隣関係各位、皆様に、温かく支えていただいたというのが本当のところです。

ありがとうござます。


今も現役で夫婦で、たこ焼やってます。

今年で25周年です。


衛生責任者は、母の名義で登録。なので、形式上は母が店長で、親父が雇われの身。

実質的には、親父が朝の仕込みから、片付けまでほとんどやってます。

母は、家事をこなしがら、店が暇なときは交代で店に入り、忙しい時は2人で焼きまくり!


毎日勘定をして伝票を付けた後、母から受け取る親父の給料は500円玉一つ。

夫婦で笑いながらやり取りしているのを見て、私も妹も心配なく平和に暮らしていました。


ちなみに、オープンから1週間後、新車のコックピット号で、従兄弟3人と私、妹の5人は、父の運転で外出。

夜になって、帰り道、後ろの荷台に従兄弟の姉ちゃんと一緒に乗った私は、後ろのガラスに付いていた

ゴムのようなものを剥がしました。最初はきれいに取れなかったので、2度3度やって取りました。

手のひらには、「コ」と「ピ」の文字・・・


家に着いてから、親父にしばかれたのは、言うまでもありません。。。。。



<次回予告>

教室に忘れたハーモニカを取りに行け!




昨日はじめての日記を書いたところ、「続けていって下さい」という応援メッセージをいただきました。

ありがとうございます。


ということで、「にっしー」とは実際どんな人間なのか。最初に少しずつ書かせていただくことにします。


1980年11月15日、大阪府岸和田市に生まれました。

現在は、父(60歳、B型)、母(52歳、O型)、私(29歳、O型)、妹(24歳、たぶんB型)の4人家族。

両親は、現在2人で岸和田在住。

妹は、去年6月嫁さんに行きました。(岸和田の隣の泉大津市在住)


私は、

26歳まで岸和田市内にて生活。

27歳で大阪市内に一人暮らし。

28歳で東京転勤。現在に至る。(一軒家の寮住まい)


<家族について>

大学卒業後、某エアコンメーカーで真面目にサラリーマンをしていた親父29歳のとき、

地元信用金庫で働いていた母22歳と見合い結婚。

その年の11月に私が生まれ、4年後に妹も誕生。


●父方の家族

父方の祖父は、親父が高校2年生のときに脳溢血で急逝。

以来、祖母が女手一つで伯父と親父の2人兄弟を育てる。

祖母は、気合いの入った女性だった。

いたずらをした4歳上の私の従兄弟は、庭の松の木に紐でくくり付けられて、箒でしばかれたらしい。

ちなみに、祖父は、陸軍兵として先の大戦に参加。

中国戦線で、敵銃弾で片目を負傷し、ガラスの義眼を入れていた。

麻酔なしの手術は言葉に耐えがたいもので、「あの時の痛みより痛いもんはない」と言っていたらしい。

だけど風呂に入ったときには、「ええもんやろか」と言って湯船に浮かせて親父に見せて遊んでいたらしい。。。。いや、じいちゃん、会った事がないけど、もし見せられてたら、怖いよ~。

祖父母は、生粋の岸和田人。

親父も岸和田を離れた事はない。

若くして祖父がいなくなったため、親父は自宅で町内の子供向けに勉強塾を開いて学費に充てた。

また繁忙期の郵便局で配達員のバイトをしたとか。

まぁ、真面目な親父だったので、恋愛に関しては、かなり奥手だったに違いない。


●母方の家族

母方の祖父(岸和田出身)は、先の大戦で海軍志願兵として参加。

三重、徳島、霞ヶ浦の航空隊での教育期間を経て、大分から台湾へ向けて飛び立った。

海軍基地があった台湾を経由して、フィリピン・セブ島での特攻隊員としての飛行だった。

ところが、途中で友軍機と接触し、海へ墜落。野戦病院に収容され、内地で療養。

その後、山口・岩国で零戦、雷電パイロットとして任務に当たり、兵庫・鳴尾浜で京阪神防空任務中に敗戦。

戦後は、岸和田市役所勤務一筋。

定年後、市外郭団体の館長として勤務後、証券会社に3年勤め退職。

祖母(熊取町出身)は、専業主婦として、半歩下がって歩くという姿勢で、じいちゃんを支えた。

伯父と母を授かる。

母を産んだ後、背中の血管に大きなバイパスを通す手術をしたため、激しい運動はだめだった。

昔、祖父母と一緒に初詣に行った時、祖父ちゃんは人ごみの中でも歩くのが早かった。

一人でもテクテク行くので、私も迷子にならないように必死に付いて行った。

手を合わせての帰り道、祖母ちゃんが階段を登り終えるところくらいまで来ていた。

祖父ちゃんは、「遅い!」と言って怒った。

祖母ちゃんは、「(祖父ちゃんと私の)2人がお参りしたんなら、私はもうええわ。一緒に帰ろうか。」と言った。

子供心に「祖父ちゃん、怖いよ~。祖母ちゃんに、もうちょっと優しくしてあげてもええんちゃう」と思った。

祖母は、明るくおおらかな人だった。ムードメーカーとして大きな存在だった。

小さい頃、私は祖父母宅でよく面倒を見てもらった。


母は、地元公立中学校を出て、私立の女子高、その付属の短大へ進み、就職。

花嫁修業の一環で、茶道と華道の師範代資格を持っているらしい。

しかし、お手前を拝見したことはない。


伯父は、教育大学卒業後、岸和田市内の公立中学校社会科教師。

伯母は、現在、某大学準教授。(専門は社会福祉)



●両親について

とまぁ、厳格な祖父に育てられた母を嫁さんにもらい、子供2人を授かり、順調な人生。

母は、顔立ちもなかなか可愛いほうだろう。

2人は幸せだった。


ところが、親父35歳、母29歳、私6歳、妹2歳のとき、親父が脱サラ!


理由は「上司がアホで俺の企画を中々受け入れなかったから。」


そんなわけで、にっしー家は路頭に迷うことになったのでした。



<次回予告>

“お父さん、何でガレージ改造してるの?”






皆さんはじめまして。

かなり前に登録だけしていて、まったく更新していなかったアメブロ。

今日はじめて書きます。


昨日は、隅田川花火大会見物に行きました。

住んでいる家から徒歩1分で会場です。


とても楽しかったです。その理由は、

第一に、腹を割って話せる人と行き、仕事に関して色々話せたこと。

第二に、素敵な人と出会うきっかけを得られたこと。


いい刺激を受けた一日でした^^