人生はいくつに分かれているのか?

 

10代 20代とか数字でよく区切られたり、

 

生命保険だと、ライフイベントとか言って、家族が増えて的なことで測られたり

 

そんなのが一般的なのだと思うけど

 

私の中で一つ大きな括りがあるとしたら、

 

大学の卒業論文でした。

 

 

22歳の時(うん、随分と前の話だよね‥‥※独り言です)

 

その時に思ったことは今でもしっかりと覚えており、

 

それはどんなものだったかと言うと

 

卒論のテーマを選んで、

(ちなみに私はアメリカ文学を専攻していてサリンジャーが好きだったので、

そこにフランス好きで実存主義と戦後始まった若者文化としてカウンターカルチャーを取り上げた)

 

出だしは結論が出ていなくて、書き進めながら自分の頭の中身を纏めていき、

 

徐々にそれまでの人生で疑問だったことや、頭にあったことを整理して

 

卒論にまとめた。

 

内容がどう、という話ではなく

 

その時それまでの集大成的なことが一つの形になった、

 

一つの小さいゴールのような気がしていた。

 

 

その時の達成感や、掴んだように思えたゴールでの気持ちや気分をもとに

 

その後生き始めた。

 

その後仕事をしたり、しなかったり、体を壊して軌道修正したり、

 

ヨガに出会って、死ぬまでやろうと思ったり。。。

 

でも卒論の時のようにまとまったゴールは見えなくて、

 

でもなんとなく新しい卒論がどこかでまとめられる気がしていた。

 

22年周期くらいでできるのではないかと言う

 

なんとなくの予感・感覚。既知感のようなもの。

 

 

でも全然、全の全の全然くらいに第二の卒論はやってこなかった。

 

仕事でも対案書として何かを作ったりはしたけど、

 

卒論に匹敵するようなものはなかった。

 

社会人向けの学校も行ったし、

 

ヨガの先生になるためのスクールも行ったし、

(ここでは最高に何か大切なものを手に入れたけど、ゴールというよりスタートだった。)

 

色々のいろいろを模索して模索して、彷徨いまくったけど

 

何かそれらしきものがない、と思ってた。

 

 

スランプって、数日で済めばいいのだけど、

 

私の場合は年単位だと感じていて、トンネルがとにかく長い。

 

長くて長くて、もう出口はふさがっていたり、初めからなかったんじゃないかと思えたり

 

そんな感じに長くて暗くて、時々進むのやめていたり、後ろの道の方が外に出られるんじゃないかと

 

来たみちを振り返って戻ってみたり、、、

 

 

で、今日言いたかったこと。ここから。

 

もしか私して、卒論程度と同じゴール、同じ達成感を期待していたのだけど

 

それは間違っていたようで、

 

卒論のゴールを内包するようなもっとデカいゴールに向かっているのでは?ということ。

 

卒論の頃の自分にあったヒントは忘れてしまっていたのだけど

 

今怒涛のようにまた巻き返して私に近づいてくるし

 

最初からずっと周りにいたことを最近とても感じます。

 

冒険ファンタジーや、RPGみたいに、

 

主人公が必須アイテムを近くに置いていたのに埃かぶってて

 

忘れていたみたいなそんなふうなイメージ。

 

 

ただ、時間が経過することによって、新鮮だったり、

 

また少し効果が違ったり、時代に合わせて使い方が違っていたり。。。

 

「それ、20代から知ってたし、持ってたね」的なモノや本やアイデアや

 

そんなこんなが新しい光を受けて私の目に飛び込んでくる。

 

 

大いなる卒論第2章にいたのだな、とバスチアンアトレーユの気分です。

(ミヒャエル・エンデ『はてしのない物語』)

 

あ、私は今“うれいの沼”を抜け出しているのだな、ってか

 

“うれいの沼”にハマりにハマっていたな、という事実に気づいた。

 

ミヒャエル・エンデは大好きな(ファンタジー)作家です。

 

残念ながらもう亡くなっていて、でも私の心の柱の構成要素を作ってくれた人です。

 

 

ということで、卒論よりももっと時間がかかってるけど、

 

何かを生み出せそうな気分に満ち満ちています。

 

ということを書いておきたかった。

 

 

うれいの沼を抜け出すエネルギー量を

 

外に出た後使えたら、すごくいいのではないかと、

 

そんな想い。