シルバーウィーク最終日は、新潟市美術館へ。
「リバプール国立美術館所蔵 英国の夢ラファエル前派展」を鑑賞しました。
ジョン・エヴァレット・ミレイ『ブラック・ブランズウィッカーズの兵士』1860年
兵士の「もう行かなくては」と、ドアにかける手と、女性の「行かないで」とドアノブを押さえる手……。一瞬がすべてを語っています。ミレイが描くドレスや女性の指先、まぶたの膨らみに、うっとり。
中世の伝説や神話を題材にした作品にも惹かれます。
精神世界の豊かさへの憧れからでしょうか。
ジョン・エヴァレット・ミレイ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズなど、英国ヴィクトリア朝の絵画にふれて、ふくよかなひとときでした。
新潟と英国の繋がりといえば、安政5年(1858年)の修好通商条約により開港五港のひとつに指定された新潟の港に最初に入ったのが、英国船だったそうです。江戸時代は北前船で賑わっていた新潟港に、明治になると外国船が来るようになるのです。
明治2年(1869年)、新潟市中央区西堀通りの勝楽寺に英国領事館がおかれます。
また、スコットランド一致長老教会医療宣教師のセオボールド・パーム(Theobald Adrian Palm/T.A.パーム)が明治7年(1874年)に新潟市中央区の湊町に診療所を開設。
明治13年の新潟大火で診療所焼失後、南浜通りに開いた診療所がパーム病院です。
医療活動をしながらキリスト教の伝道をしていたんですね。
1874年、開化策として国内に官立の英語学校が開設され、そのひとつが新潟に。これが新潟英語学校で、日本歴史地理学のパイオニア吉田東伍や治水事業に尽力した大竹貫一などの人材を輩出しました。
その後、大阪梅花女学校の教師だった成瀬仁蔵が明治20年(1887年)に新潟女学校を設立。同年、阿部欽次郎が男子校の北越学館を設立。
どちらもキリスト教主義の学校です。
開港から大きく動き出した新潟でしたが、外国貿易は期待されたほどではなく、英国領事館は撤退(ドイツ、アメリカ、オランダ領事館は英国領事館より先に撤退)、パーム病院はパームの後任宣教師が1885年に閉鎖。官立の英語学校は1893年に新潟学校に合併され、新潟女学校、北越学館は閉鎖されてしまいます。
新潟港は河口港で水深が浅く、当時、外国との貿易港として不利だったのは、大変残念なことでした。また、越後平野を水害から守る大河津分水の工事が始まったのは明治3年(1870年)。工事の中断、再開、補修工事を経て完成したのは、昭和6年(1930年)のことです。 長い年月がかかりました。
現在の新潟港は「国際拠点港湾」として、貿易、国内外の旅客などの総合港湾になっています。
明治34年(1901年)、成瀬仁蔵が東京に設立したのが日本女子大学。
その設立に多大な貢献をしたのが、広岡浅子。浅子が実家の三井家に働きかけて寄贈された土地に日本女子大学が開校しました。
広岡浅子とは──まもなく始まるNHKの連ドラ『あさが来た』の「あさ」のモデルになった女性実業家です。
日本女子大学HPの 創立者成瀬仁蔵のページに、新潟女学校の写真が掲載されています。
https://www.jwu.ac.jp/unv/about/spirit/naruse.html#anc_01
さまざまな分野の開拓者たちのおかげで、私たちの今の暮らしがあるのです。
新潟と英国が出会った頃の、まさに、英国ヴィクトリア朝のラファエル前派の素晴らしい作品を鑑賞できて、良かったです。
新潟市美術館向かいの西大畑公園。
周辺は紅葉が始まっていました。
長文におつきあいくださり、ありがとうございます。
■参考
新潟市歴史博物館みなとぴあ http://www.nchm.jp/
新潟市の教育 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2
信濃川大河津史料館 http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu/
日本女子大学 http://www.jwu.ac.jp/sp/