修練を積めば
暗闇で的が見えなくても
中てられるってことは
必ずルーティンがあるはずだと思うんだけど
どうなんだろうか。
4「基本体の必要性」について述べなさい。
現代の弓射は、実利の射ではない。弓は猟具でもなければ武器でもない。現代の弓道の目的は、身体を強健にし、礼節・信義・克己・謙譲・大和等々の精神を養い、人格の陶冶に裨益し、生活内容を豊富にすることにある
ところが、現実には技術にのみ拘泥して、小手先の技巧に走り、的中にのみ心をうばわれ、射は「会から離れ」といった風潮に支配され、当然行うべき前後の気構えや、体の構え、動作などが軽視されがちであったことは否定できない
一輪の花も、根幹や枝から育てあげなければ花は咲かない。いわんや、馥郁たる名花は長期にわたってのあらゆる手入れと努力の累積によってほころびる。それだけに名花には香気もあり、生命もあるのである
われわれの弓射もまたかくあらねばならぬ。ただ的にあてることのみにとらわれ、現代弓道の本質を忘れてはならない。『道は本にして枝は末なり、本立たずして末正しきものなし』ということばを玩味しなければならない
少なくとも射場に入るに際しては、礼記にある心構えと行動がなくてはならない。内的には煩悩を去って生気をたたえ、誠をつくす覚悟が必要であり、外的には体の構えにも起居進退にも隙がなく、自然体を保持して作法にかなった体配が必要である。射と体配とは分離した2つのものではなく、一貫されてこそ立派な射となり、風格・品位が表われるものである。心の持ち方・体の整え方・正しい息合い・射法・射技等、心・身・弓が渾然一体となってこそ、射の内容は広く、深く、真善美を顕現するものである
大家や権威者でも、時によっては的をはずれる。しかし錬成された風格・品位は、いつの場合でも見るものに感動を与える。的中にのみこだわり、百発百中を誇る射手も、体力・気力の衰退とともに「あたり」も減ずる。かつての的中の名手に残るものは、ただ憐びんの情だけである。たとえ老齢に達して的中の減退があっても、奥ゆかしい品位や枯淡な風格によって光彩を放つ射手でありたいものである
こうした考え方から、今後の弓道のあり方を明らかにし、射を行うためにために基本体が必要である。
以上 弓道教本第1巻P.57~59参照
自分の言葉で
要約が必要かもしれないなぁ。
正射目指して日々鍛錬!