◆一番古い記憶はベビーベッドの中から見た光景です。ベビーベッドには蚊よけの網が覆ってありました。その網の向こうから母、父、叔母と誰だか分からないおじさんが それぞれ僕に話し掛けながら皆で覗き込んでいました。この人はおかあさん、この人はおとうさん、この人はおばさん、ときちんと判っていたと思います。もう一人のおじさんは誰だったのか判りませんでした。




◆次に古い記憶は おとうさんのこぐ自転車の前カゴに乗せられて灼熱の砂利道を走った記憶です。身動きが取れず、とても苦しかった。その後気を失ったこともよく覚えています。




◆物心ついた頃から夢想家で、日がな「心臓はどうして鼓動を打っているんだろう」とか「あの空のずーっと彼方には何があるんだろう」とか取り留めの無いことばかり考えていました。なんで人って居るんだろうとか、まあそんな類のことです。




◆4歳の頃、おとうさんがステレオとクラッシック全集とか言う音楽の百科事典を買ってきました。もともとおとうさんもおかあさんもグリークラブの出身です。音楽好きな両親でしたので、クラッシックを聞く機会はとても多かったのです。おとうさんに聴かされたモーツァルトの交響曲第40番はとても衝撃的でした。さっきまで友達と遊んで楽しい気分だったのに なんだかとても重たいものを感じました。音楽のすさまじさを知ったのはそれが初めてだったと思います。音楽家になりたいと思いました。





◆初めての家出は4歳頃でした。弟が出来て皆が弟をかわいがるものだから、僕はもういらないんだ、と拗ねてしまったのです。よくあることですね。宝物のように大事にしていたブリキ缶の手提げにパンツをいっぱい詰めて 家からせいぜい50メートルくらいの距離をぶらぶらしていました。街の人や家族は真剣な僕の気持とは裏腹に、微笑みながら手を振っていました。なんでパンツを持って出たのかと言うと、生活に必要な物の中ではナンバーワンだったからです。




◆見える景色がぐにゃっとゆがむのをよく見ました。全部がゆがむのではなくて一部分だけです。また、部屋の中が風船のようなシャボン玉のようなもので満たされる様もよく見ました。息を吸うとタマは無くなり、息を吐くとタマで埋め尽くされるのでした。





◆自分の見ている世界と他人の見ている世界は違ったフォルムで見えているのではないかと疑っていました。何故ならば、うちのおかあさんはとても美人に見えるのに、友達のおかあさんはお世辞にも綺麗には見えなかったからです。





◆おかあさんは僕がやる事為す事を理解しようとしてくれませんでした。弟が生まれた頃、僕はおもらしをしてしまいました。したくてやった訳ではないのですが、おかあさんは烈火の如く怒り、はたきで何度も僕を叩き、全裸にして外に放り出しました。その日からウンコはしちゃいけないんだと思い、ウンコを出さないようトイレに行くのを我慢しました。





◆またあるとき、鳥がたくさん飛んできたらさぞかし綺麗だろうと思い、米びつに入っている米という米を近隣の道路に撒き散らしました。道路が白く見えるほど大量に撒きました。その時も家に入れてもらえなかったと思います。お隣のおじいちゃんがビックリしていた顔を今でも思い出します。鳥が来る様が綺麗と言うよりも、道路が白くてきれいだった事をよく覚えています。





◆学校の先生の言う事を疑っていました。図画工作の時間、水彩絵の具を使う僕らに先生はこう言ったのです「紫色はきちがいの色だから使ってはいけません」ってね。紫色が大好きだった僕は、自分がきちがいじゃないことを知っていたので、先生の言っている事は間違いだ、と確信していたのです。
ひょっとしたら僕の知っている紫色は先生の知っている紫色とは別の色なのかな?と疑ったりもしました。





◆学校の先生の言った事はいちいち覚えていました。いい事も悪い事も。ある日先生に呼び出され、正座をさせられました。そして「あんたみたいな変わった子、あたし大嫌いだからね!普通になりなさい!普通じゃないと乞食になるんですよ!」と怒鳴られました。僕は変わったことをしていたわけではありませんでした。ただ興味が湧いたことを(一応回りの迷惑にならないよう考えながら)実行していただけだったのです。三十数年後、先生は僕の店まではるばるやって来て、当時の事を涙ながらに謝罪しました。先生も忘れられなかったそうです。





◆勉強は大嫌いでしたが学者の類にはなりたかったです。





◆小学校中学年から高学年にかけて、よく深夜のラジオを聞きました。流行っていましたね。僕のお気に入りはラジオ劇場の「ブラックジャック」や「マカロニほうれん荘」などでした。そのあとに始まるマガジンGOROプレゼンツ「スネークマンショー」も欠かさず毎日聞きました。毎日違うネタで僕を笑わせてくれるなんて、桑原茂一という人はすごいな、と思っていました。





◆おかあさんから「女性とお年寄りには優しくしなさい」と教え込まれていたので、学校でも女子には優しく接していました。それがもとで男子の一部からはいじめを受ける羽目に遭いました。でも自分がやっていることは間違いではないと確信していたので日和らずに自分のスタンスを貫きました。おかげで中学にあがった頃には僕はかなりモテました。





◆中学に進むと、僕は両親にピアノを習わせて欲しいと頼みました。音楽家になりたかったのです。しかし返ってきた答えは「音楽でメシは食えない。だからダメだ」 その答えを聞いてとても悲しかった。しかし僕はピアノの練習は学校の体育館のピアノを使い、音楽の基礎学習はお小遣いをためて一冊ずつ教本を買い揃え、独学で音楽の勉強をしました。弟は何故かオルガン教室に通わせてもらっていました。





◆父の口癖は「一番好きなことは趣味にしろ。二番目に好きなことを職業にしろ。」でした。何故一番好きなことを職業にしたらいけないのかその当時は全く分からなかったし、今でも理屈はわかるが本質ではないと思っています。


◆高校受験は楽勝だと思っていたのでずっと音楽の勉強しかしませんでした。ある日、僕の音楽の教材が一切無くなっていたのです。母は「受験勉強しなさい。受験が終わったら返してあげる」 どうやら音楽の教材を隠してしまったのです。僕はトイレで泣きました。声を殺して泣きました。あんなに悔しい思いをしたのは生まれて初めてでした。





◆しかしすぐ何処に隠してあるのかを見つけ出し、受験勉強をする振りをして音楽の勉強を続けていました。音楽大学に受かるには15くらいから勉強をはじめるのでは遅すぎる事を知っていたからです。





◆両親から「公立高校に進学するならピアノを買ってやる」との約束を取り付け、簡単に入れそうな公立高校を選びました。そしてまんまとピアノをせしめました。さらに高校進学と同時にピアノの師匠、作曲の師匠に師事させてもらいました。積年の思いが一気にブレイクしたのです。





◆高校へは朝一番に、それこそまだ校門が開く前から入っていました。僕が校門を開けていたくらいですから。そして体育館のピアノで練習をしました。朝のHRを終えると教室から飛び出し、図書館で音楽の勉強をしていました。最初の頃は司書に「授業に出なくてもいいの?」と言われていましたが、そのうち司書も何も言わなくなりました。





これが僕の0~15歳の記憶です。
そのうち16~30歳くらいまでの事を書きましょう。