夕陽の向こうに線路は続いていた。単線の線路を西に向かってコトコト走るのは見たことも無い気動車で、行き先表示には「高麗川」と書かれていた。子供心にも地名がエキゾチックで、ディーゼルの黒煙を吐きながら夕陽に突き進む気動車は、きっと外国に行くのだとばかり思っていた。実際には、高麗川は埼玉県西部の秩父に近い町に流れる川に由来する駅名だ。それをはっきりと認識したのは、中学校にあがってからの事で、それまで俺にとっての「高麗川」は外国であり、いずれ訪れる神聖な場所なのだと運命じみた事を思い続けていた。
初めて高麗川に行ったのは秩父三十四箇所参りを始めた中学2年生頃の事で、何故そう思ったのかは今となっては判らないが、恐らく高麗川を避けて秩父に行くのが罪な事の様な気がして、幼い頃に「外国に行く列車」だと思っていた川越線に乗ったのだろう。
川越線は、ここが都内通勤圏だとは思えないほどだだっ広い、刈入れ後の茶色い田んぼの中を突き進んだ。エンジンの音が高鳴り、高鳴ったかと思うとぷつんと途切れ、レールの継ぎ目を車輪が踏みつける小気味良い軽い響きを立てた。
駅からどの位歩いただろう、あてずっぽうに歩いていると、丘の上に社が見えた。何も考えずたどり着いたそこが高麗神社だった。見渡す限り誰も居なかった。神社を謳っているのだが、俺が知っている神社の形式とはつくりが全く違っていた。思い描いていた高麗川は、やはり日本じゃない、どこか知らない遠くの国だった。祀られている神は遠い異国の神だった。
ひとしきり社を見て、それから丘を下った。下ったそこに墓があった。日本の意匠ではない、不思議な形状の墓だった。墓前に進むと誰かがいてぎょっとした。それは、額づく白装束の男だった。歳の頃は25歳くらいの清潔な青年だ。地面にひれ伏すその姿は、いつかテレビで見たチベットの僧侶の五体倒地にそっくりだった。そのありさまをしばし見ていると、男は不意に立ち上がり、おもむろに俺を見て微笑んだ。
「ここは綺麗な土地でしょ?」
挨拶も抜きに男は問い掛けたが、不自然な感じは少しもしなかった。
「あの山の向こう側が秩父だ。君はここが外国の様だと感じているかも知れないが、秩父だって外国みたいなものだよ。外国と言うより、この世のものではない、と言うべきか。むしろ西方浄土だ。秩父に続く高麗川は浄土の入り口と言ってもいいだろう」
訊ねてもいないのに、この人は俺が訊きたい事を先回りして答えた。
「何故ここは俺が知っている日本と違う雰囲気がするのですか?」
「日本じゃないからだよ」
彼は石段を、俺が来た方向とは逆に、社に向かった。俺も一緒になって彼の後ろをついて行った。
「日本じゃなければ、ここは何処なんですか?」
「高麗川だよ。ここは高麗川という国だ。君が幼い頃から思っていた高麗川さ。君が夕陽の向こうに思い馳せた、そのまんまの高麗川だよ」
「ここは地続きの日本ですよ」
「子供の頃は地続きだなんて思っていなかっただろ?考えてご覧?日本ってくくりは大きすぎる。土地土地に独特の魂が宿っているのだ。きっと君の土地だって、日本と呼ぶにはあまりにも独特な魂があるはずだ。これから先の君にとって役立つだろうから教えよう。国にこだわるな。大きなものに呑み込まれそうな、小さな何かを大切にするといいよ。どうも君たちはそれをおろそかにし過ぎるからね」
そう言うと履物を脱ぎ、社に上がって行ってしまった。
社の入り口でぽかんと突っ立っている俺に、建物の内側から彼は大きな声で言った。
「そうだ、君は運がいい。もう一度墓まで下って、墓の向こう側に行ってご覧?宮司が居るから、俺たちの住まいを見せてもらえばいい」
訳も分からぬまま墓まで下って、その向こう側を見ると、茅葺の小さな家屋が見えた。その前に進み出ると「重要文化財 高麗氏住宅」と書かれた札が掲げられていた。
「おや、お一人でご参拝かな?」
はたきを持った宮司が中から現れた。
「ここは何ですか?」
「これはね、ご先祖の家だよ。定期的に掃除しているんだ。普通一般人は中に入れないんだけど、掃除の最中だし、内緒だよ?中を見るかい?」